蔵元日記vol.538【コロンビア大学での講演②】
皆さんこんにちは。私は獺祭を造っている旭酒造株式会社という酒蔵の三代目の桜井博志と申します。現在は会長として酒蔵に携わっております。
獺祭は日本酒の一銘柄です。日本酒は日本で生まれ育ち米と水を原料とする醸造酒です。そして、日本民族の歩んできた歴史に言うまでもなく大きな影響を受けています。
日本の国土は四方を海に囲まれて、そして山が多く平野が少ないことを特徴とします。従いまして農耕地として使える平野はヨーロッパ各国やアメリカ等と比べるととても少ないといえます。
しかし、明治初年1868年の人口を見ますと3400万人に達しています。産業革命も知らない当時の日本でなぜこれだけの人口が維持できたのでしょうか? それは労働集約型農業の発達、特に米作によるものが大きいのです。
面積当たりの少しでも高い米の収量を求めて、苗床などの手間のかかる栽培技術を発達させてきたのです。さらにそれを助けたのは、わずかな収量増のためでもそれがプラスであるならそれ以上の人手をかけることを厭わない、いやそれを正しいこととしてきた日本人の考え方です。結果として中世以降の日本の農村で、跡継ぎでない次男三男も過剰な人員として切り捨てられるのでなく、村の貴重な働き手として抱え続けることができたのです。
この時代にして珍しく大きな人口を日本が維持できた理由は栽培方法を工夫することにより収量の上がる米を主食とし、改良してきたことが大きいのです。つまり、自然をそのまま受け入れるのではなく、工夫することにより共存して共生していく。そのためには農業技術の改善が大事になります。
このことは米を原材料とする酒造りにも大きく影響しています。つまり酒造りにとって技術が非常に重要な事なのです。ワインについて門外漢である私が言及するのですから的外れな事を言っているかもしれませんが、ワインを見ていますと、ヨーロッパの気候や大地に大きく影響されていると思うのです。醸造技術やブドウの栽培技術というより自然のままに造られることを尊ぶように思われます。このあたり、技術の捉え方という点が日本酒とワインの大きな違いであると思います。日本酒はどこまでも日本人の民族性と価値観そして歴史に色濃く影響されている飲み物と思います。
獺祭について話しますと、少しでも美味しい酒を目指して技術そして人手の「手間」をかけるということをとても大事にします。具体的に言いますと、販売数量では日本で12位、販売金額で4位にもかかわらず、170名の製造スタッフの人数は日本一の数です。しかもスタッフ一人当たりの製造数量を見てみますと、50年前の昔ながらの酒造りを踏襲する酒蔵の一人当たりの製造数量と同一か見方によると半分以下なのです。これは、その後のフォークリフトなど省力化機器の発達を考えると、日本の酒造業界でも特異な数字です。獺祭は手間を大事にするのです。
近年におけるデジタル機器の発達のおかげで酒造りのディテールが見えるようになりました。そのディテール・データの文脈を読むと、如何に手間をかけることが大切か見えてきます。その手間をかける大切さを理解する製造スタッフによりさらに獺祭の酒造りは進化してきたのです。
獺祭の出荷数量は一ランク落として純米吟醸として見ても日本全体の11%程度を占め一位です。統計がないので必ずしも正確とは言えませんが、純米大吟醸だけで見れば全体の三割以上を占めるのは確実と思います。しかし、私がこの旭酒造を継いで三代目の社長になった1984年当時の酒蔵は、何の特徴もない地域のマーケットを対象とする安酒を売っていました。岩国市という人口10万足らずの小さな地方都市で酒蔵同士の売上順位は4番目でした。販売競争に負けて過去10年間で売り上げが三分の一になってしまった、技術もない、売上もない、しかも所在地は猛烈な過疎にあえぐ山間の僻地にある、という三重苦にあえいでいたのです。
その三重苦の中で従来の地元対応の安いだけのお酒ではレッドオーシャンそのものの地元の酒市場では勝負になりませんでした。結局、純米大吟醸の「獺祭」を開発して、地元に見切りをつけて東京市場に進出することにより酒蔵として生き残ることができたのです。
その頃、純米大吟醸の市場も、安定的な生産技術も日本酒業界にはなかったのです。しかし、そこに獺祭が新しい高価な酒の市場と生産技術を確立していったのです。そしてその挑戦は地方の小さな酒蔵でも「東京など大都市市場で自分たちの酒を売って成功することができる」という新しい希望を他の小規模酒蔵の間に造り出しました。
「なぜ、それが地方の負け組酒蔵でしかなかった旭酒造に可能だったか」といいますと、時代の背景が大きかったのです。まず、日本経済が発展することにより個人の平均所得は上がりましたが、それに対し酒の価格そのものは機械化や合理化により反対に低下しました。つまり、日本人は質さえ問わなければいくらでも飲めるようになったということです。このことは業界内では無視されてきましたが社会全体で見たときアルコール疾患の患者の増加などとして現れてきました。
そんな中でお客様の肝臓病の罹患率の増加などから、量を飲んで酔っ払う快感から良い酒を少量飲むことによる心理的充足を求めて、私は純米大吟醸の専業の酒蔵に舵を切ったのです。これにより大きな意味で社会からの好感も得ることができ、獺祭の純米大吟醸が若者や女性を中心に受け入れられるようになったのです。しかしこれは、今になって思うと負け組の酒蔵であったがゆえにできたことだったのです。勝ち組であればそれまでの自分の酒を否定できなかったのではと考えます。
また、それ以外にも物流とコンピューターの発展が後押ししてくれました。日本において宅急便の発達による個人への小口物流の簡易化と低価格化は東京市場に進出しようとする旭酒造にとってはっきりプラスになりました。新しいしたがって仕入れ単位が小さくなりがちな取引先へ酒を送るときに、従来型の大型トラックや鉄道コンテナ―では不可能だったからです。そして、それとコンピューターの発達が情報発信の同じく個人ユーザーへの開放と低価格化をもたらし、直接エンドユーザーに私たちの情報を伝えることを可能にしてくれたのです。それらは大いに都市型市場の開発に役に立ったのです。
しかし、私は純米大吟醸しか造らない酒蔵に成長させる過程で、高齢化する杜氏の後継者を育成する必要に駆られます。当時、冬場しか酒を造らず、年間継続雇用に難のあった伝統的酒造習慣の弱点を補強するため、夏場の雇用対策としてビールのマイクロブリュワリーを造ります。しかし、その事業に失敗してしまいました。その失敗を見て、給料をもらえそうにないと感じた杜氏は全部下を引き連れて他社に移動してしまいます。
困った私はそれを奇貨として自分と社員4人だけで酒造りを始めます。結果としてそれは「美味しい純米大吟醸を造りたい」という私の意志を社内に一気通貫で行き渡らせる事になったのです。そして、頑固で高齢な杜氏のもとではできなかった、美味しい純米大吟醸の実現に向けての数限りないトライ&エラーを繰り返すことを可能にしました。技術的に劣っていた私共が他社に先駆けて優れた純米大吟醸の量産化と技術が確立できたのはそのような皮肉な理由があったのです。
しかも、農業との兼業で冬場にしか来ない杜氏の雇用形態から外れて社員だけの酒造りになった旭酒造は、「寒造り」という伝統的酒造方式をやめ、酒蔵を空調することにより、通年醸造方式を採用します。しかも、通常大手の酒蔵でよくやられていた大型化や機械化ではなく、小さな作業単位で細かなコントロールを可能にする方式を編み出します。その結果、トライ&エラーも常に行われることになり、一気に技術の洗練が進みました。
米についても同じく逆境が私たちを救ってくれたと言えます。地元である山口県には良い酒造好適米がなかったのです。私たちは地元で最初良い米を作ってもらいたいと望んでいました。しかし、政府の最強の圧力団体でもある農協の山口県の支部は新たな米を作ることに消極的でした。というより「良い米が欲しい」という私たちに愚弄的でさえありました。ある時、とうとう我慢できなくなって私は農協との縁切りを決断します。
その後、最強の農業団体である農協パワーの助けを求めず、単独自社で取引する農家を開拓していったのです。やるなら最高の米と狙いを定め最も高価な山田錦に的を絞りました。今現在、年間で9000トンの山田錦を使用しています。この数量は日本全体の山田錦の生産数量である26000トンの34%です。この大きな数量の購入ルートは自分自身で開拓していったからこそ出来上がったのです。
しかも、旭酒造の成功を見て、最初は見向きもしなかった山口県農産部が酒米に目を向け始め、農協と手を組んで自分たちで新しい酒米品種を造ろうとします。しかし、あまり優れていないその新品種を山田錦に変えて使おうとしない旭酒造に様々な嫌がらせをしてきました。経済合理性から言いますと、地域で絶大な力を持つ地方自治体のいう事を聞かないということは得策ではないかもしれません。しかし、私はお客様の顔を思い浮かべた時、獺祭に適していない米で獺祭を造ることはできなかったのです。
現在、旭酒造の取引する山田錦の栽培農家は山口県にとどまらず、南は熊本県から北は栃木県や新潟県まで広がっています。従来ですと気候的な観点から栽培に適していないと言われていた地域まで広がりました。皮肉なことに、これが可能になった理由は地球温暖化による栽培適地の北上が大きいと思います。
とにかく、米についての私どもの物語を語るとき、「地元山口県に良い米がなかった。だからこそ良い米を全国から手に入れるルートができた」と言えます。
お陰様で、アメリカでも高評価を頂いております。私たちにとって思い出深いのは元総理である故安倍首相が2015年にアメリカを訪問した折、ホワイトハウスで開催された公式晩餐会に獺祭が採用されたことです。実は乾杯の寸前まで秘密にするようにアメリカ政府から要請が有りました。ですからオバマ大統領の乾杯の挨拶で「この酒は山口県の獺祭です」という話が出るまで安倍首相も知らなかったのです。当時のテレビニュース画像を見ますとびっくりして振り返る安倍首相の姿が映っています。安倍首相は昨年本当に残念な事件にあって亡くなってしまったのですが、この時のアメリカ政府の心遣いは我々の心に残り、史上初めて公式晩餐会で日本酒が使われ、それがわが獺祭であったという栄誉はいつまでも私どもの歴史に残るでしょう。
こうやって私どものお話をしていますと、結局、逆境が「今の獺祭」を生み出してくれた、という感慨を持ちます。
その獺祭がアメリカ、それも東海岸のハイドパークで純米大吟醸を造ります。それは獺祭Blueと名付けられます。Blue(青)はなぜ付けられるのか? 日本に「青は藍より出でて藍よりも青し」という言葉が有ります。日本において青の染料は藍色の染料から生まれたのですが、藍よりも青かったのです。転じて、子が親を抜くとかそういった事を表します。私も獺祭Blueは日本の獺祭を美味しさで抜いてほしいという願いを込めて命名しました。
アメリカの皆様、どうか獺祭の新しい挑戦を応援してください。
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