『教養としての近現代美術史』2

昨日の続きから掲載いたします。

お時間あるときにご覧ください。

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ロマン主義と新古典主義

(a)ロマン主義

西洋世界に市民社会の形成を促した一八三〇年代は、イギリスで発した産業革命の波がヨー ロッパ大陸に波及し、同時にまた、王侯貴族階級に限定されてきた美術体験が、一挙に市民社会 へと拡大化していく糸口となった時代とも言えるでしょう。その主舞台となったフランスのパ リで繰り広げられたのが、当時の美術界を二分した潮流同士による激しい確執劇でした。その 一方が、十九世紀前半にドイツやイギリスから、新しい美術の中心舞台となったフランスに波 及してきたロマン主義なのです。しかし、ロマン主義とは何だったのか、そもそも「ロマン」 とは何を意味していたのでしょう。なるほど現今の日本社会でも、「ロマン」や「ロマンティッ ク」という言葉はすっかり日常化してしまった感があります。たとえば名詞では「夢想」、形 容詞では「夢見るような」といった意味で。しかし、木村泰司氏が著書において指摘されているように、そもそも「ロマン」とは、古代ローマの民衆が日常会話に使っていたロマンス語に
由来する言葉でした【1】。


だからこそ、到来した近代社会の主人公となった西洋市民にとって、 「ロマン」はまさに自分たちの起源やアイデンティティにかかわる、格別の意味を帯びた言葉と して感受されたに相違ありません。木村氏によれば、十九世紀初頭の西洋社会において、従来 のラテン語による聖書や神話ではなく、ロマンス語で書かれた中世の物語を読むのが市民層の 間で大流行していたそうです。その事実を踏まえれば、市民社会が到来した同時代の西洋美術 界においても、ロマン主義という新しい思潮が熱狂的に迎えられたのは、決して故なき事態で
はなかったのでしょう。 美術におけるロマン主義は、先ず十八世紀後半のドイツやイギリスで生まれ成熟しました。ドイツではカスパール・ダヴィッド・フリードリヒ(一七七四~一八四〇)、イギリスでは、ジョ セフ・マロード・ウィリアム・ターナー(一七七五~一八五一)が、この新思潮を担った先駆 的な画家として広く知られています。


とりわけ、肉眼ではなく精神の眼で対象を見つめよ、と 説いたフリードリヒの言葉は、産業社会化の進展に伴って、文明による自然の浸蝕や荒廃が人 間の実存それ自体まで脅かしかねない事態を、すでに察知していたような感慨にさえ誘って止 みません。そのことは、たとえばターナーが『難破船』(一八〇五)、フリードリヒが『「希望 号」の難破』(一八二二)において、大自然の威力に為すすべもなく翻弄される「理性の動物」 たる人間の無力さを、ともに感情のこもった雄弁な筆致で浮かび上がらせた事実からも明らかでしょう。


以上になります。

また、続きを書いていけたらと思います^_^

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