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「ハンス・プフィッツナーの“新美学”の音楽的無能性」

 事はプフィッツナーがシューマンのトロイメライについて、
 しかしこのような旋律に接するとき、人々はまったく中空に浮遊するのである。人々はその質を認めることはできても、それを論証することはできない。というのも、その質というものは何らかの知的な方法によって捕らえられるといったものではなく、ただそれを通じて感得される恍惚感がわかるかわからないか、どちらかでしかないからである。(…中略…) その旋律を弾いてみせ、「なんてすばらしい!」と言う以外に語ることはないのである。
と分析の不可能性を主張したのに端を発する。近世紅毛人だけではなく近年の日本でもどっかで目にしたような気がする文章内容だが、アルバン・ベルクがそれに噛みついて発表した論考が上記のタイトルでした。ヴィリー・ライヒの「アルバン・ベルク」(訳 武田明倫)で読むことができますが、曲のアナリーゼによって「個々の動機のもつすぐれた含蓄性、それら相互の豊かな関連性、そしてそれらの動機的素材の使用における多様性」を示さんとしています。作曲家を相手に“音楽的無能”呼ばわりって凄え。スカッとしたでしょうね。
 知的作業を放棄した状態で価値を主張する(“いいものは良いのだ、理屈じゃねえんだよ“)のは議論の土俵に上ろうともしない姿勢であり、一言でいえば狡い。自分もこういう誤謬に陥らぬように心がけたい。理想論と言われそうですが、分析的思考、知性の裏付けがない表現は浅はかで、一方感性や直感を許容できない思惟も信用できない。表裏一体だと信じたい。
 寡作なアルバン・ベルクの作品はどれもエモーショナルで、基本は無調だがうまく調性を取り込んで感覚的にもとっつきやすいと思います。しかも例えば「ヴォツェック」はオペラでありながら同時に音楽形式の裏付けを持っており(組曲、交響曲、インヴェンション)、それが台本、物語展開とも巧妙に結びつけられています。さらにはシューマンの後裔ともいうべき音名象徴や数字の象徴(バッハ!)など、複雑な知的仕掛けが織り込まれ隠されています(「抒情組曲」、「ルル」)が、これも音楽展開と密接に結びついた意図で行われています。
 さて一方のプフィッツナーという人はかなり厄介なキャラクターなようで、個人的にはあまり魅力を感じられない。しかしあのインゴ・メッツマッハーが取り上げるのだから、カンタータ「ドイツ精神について」などその作品は聴いてみようかなと思っています。

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