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大きな箱と小さな箱

水玉の包装紙から出てきたそれをみて、私は泣いていた。
記念すべき二十歳の誕生日である。

家では小さい頃から誕生日やクリスマスに、大きい箱が用意されているのが通例であった。大きな箱に入ったぬいぐるみやシール製造機は定番のプレゼントとして姉や妹に喜ばれていた。しかし私にいつも届くのは違った。ファンタジー小説「ダレン・シャン」3巻分。それが小学校の頃の唯一の物欲であったと言っても過言ではなかった。

中学生になり、女友達と送り合う誕生日プレゼントは、とても面倒なものになっていた。
待っていたのは大きな箱に入ったバスグッズやら風船やらの応酬であった。本が欲しいなどと口にしようものなら真面目か!とドン引きされた。「冗談!」そう無理やり口のはしを釣り上げた。高校生になれば手軽な化粧品、美容グッズの送り合い。不思議なことに年齢を重ねるにつれて、周りを巡るプレゼントというものは小さくなっていった。大学生になれば箱はどんどん手のひらサイズになり、最終的には婚約指輪へと変身していく流れまで見え見えのレールに、私はげんなりしていた。

「欲しいものないの?」 十代最後の金曜日、急にそう聞いて来た人がいた。プレゼントという存在が鬱陶しくなっていた私は即答した。「ない。ぶっちゃけ何でもいい」どうせ私も世に言う一般女性の仲間入りである。「女子大生、誕生日、喜ぶもの」と検索すると時計やらネックレスやらが出て来る。検索結果が表示する女子大生とは何丁目の誰さんのことを言っているのであろうか。正直そんなもの、いらないのである。

迎えた誕生日当日。その人から渡された、大きくも小さくもないそれをぶっきらぼうに開けた私は固まった。「大泥棒ホッツェンプロッツ」。ファンタジー児童小説だった。二十歳の誕生日に?私は咄嗟に笑い飛ばそうとした。でも、涙の方が早かった。人生で初めての、嬉し涙だった。

※大学時代に書いたものの備忘録

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