その馬は「メジロ」ドーベルという

日本競馬における最強馬は?という問いはいつの時代も盛んではあるが、ここ最近聞かれなくなったフレーズの一つが「最強の牝馬」という概念である。

ここでかつて投票が行われた「20世紀の名馬100」を見てみると、トップ10に入っているのは9位のエアグルーヴが最高位。
それから最近行われた「新世紀の名馬」に目を移すと状況は一変する。
言わずもがなアーモンドアイ・ウオッカ・ジェンティルドンナなどが名前を連ね、近年でもグランアレグリアやソダシなど、もはや牝馬が活躍することは当たり前の時代になっているわけで、「最強」の後に「牝馬」をつけることがそもそもナンセンスなのではないかと感じられてしまう。

エアグルーヴは「女帝」ではあったが、そこにはどうしても女だてらに牡馬と渡り合った……という女卑感が感じられてならない。
そもそも牝馬が牡馬に競争能力で劣る根拠は無いように思えるが、牝馬は引退後の商業的な側面から無理に競争させず良血であればそれこそ「仔馬を産む機械」のように扱われることも少なくなかった。

きっとデビュー数戦で早々に引退し繁殖とされた牝馬たちの中には、晩成し栄冠を勝ち取るものもあったのではないかと思う。
ただ、競走馬の世界は人間とは違う。牝馬のそうした扱いが一概に間違っているとは思わないが、それでも世紀をまたぐことによってここまでも牝馬の競争能力の扱いに違いが出るものかと驚きを感じえない。

一言でいえば「時代が変わった」というのかもしれない。

そのような「時代の変革」は競馬界において様々な要素でもたらされてきた。あるいは天災、あるいは天才、ディープインパクトのようなレベルになるとその両方ともいえるのかもしれない。

「最強の牝馬」という称号もその荒波によって扱いは変われど、その過程には様々なドラマがあった。

ここでは先に述べた「20世紀の名馬100」において牝馬においてエアグルーヴ9位の次点、19位にランキングされたメジロドーベルについて今が旬なので語っていきたいと思う。

その変革の波はすでに訪れていたといっていい。

1994年から初年度産駒が出走しだしたサンデーサイレンスの子供たちが日本競馬を席巻することになるのだが、その暴風警報発令寸前という状況の中、1994年5月6日に名門メジロ牧場にてメジロドーベルは誕生する。

名門メジロ牧場も海外種牡馬の圧倒的なスピードの前にこのころには全く結果を出せなくなっていた。
1990年代初頭のマックイーン・パーマー・ライアン達の活躍はあったものの、その後のトニービン・ブライアンズタイムを筆頭とした新勢力の前に、重厚なステイヤーを是とする日本古来の血統は打ち砕かれ始めており、その矢面に立たされたのがメジロといってもいいだろう。

その変革のさなか、メジロの誇る牝系メジロボサツを祖とするメジロビューティーと、メジロの傑作であるメジロライアンとの間に産まれたメジロドーベルは、それこそ「This is Mejiro」と名乗るべき、血統3代14頭の中に6頭のメジロ、12頭の内国産馬があり、「日本代表・メジロ部門」ともいえるような配合であるが、その出だしからして暗雲が立ち込める。

母親の血液型不適合により実母から授乳できなかったり、重度の骨折からの復帰など、なぜか名馬にはこうした不運が付きまとう。
その一年後産まれ、のちに「日本総大将」を拝命するスペシャルウィークも実母を亡くしたりはしているが、あちらは父親がサンデーサイレンスである。

メジロの総大将であるドーベルは、さらに言うと「牝馬」であった。

同期のメジロであり同じライアンを父とするメジロブライトがおり、こちらはメジロの宿願でもある春の盾をもたらすことになるが、ライアン産駒はこの初年度2頭のみがG1馬となり、その後は中堅種牡馬程度になってしまう。また、そのブライトも2004年に急死。
メジロドーベル・メジロブライトは名門メジロの悪く言えば断末魔にも等しい、最後のひと花に近い世代といえるのかもしれない。
のちの2000年、有珠山の噴火があった影響などもありさらに経営は難局化し、2011年にはメジロはその名を消すことになる。


第一の敵 キョウエイマーチ(父・ダンシングブレーヴ)

阪神3歳を制して最優秀三歳牝馬の栄冠を手にしたドーベルにとって、最初の難敵として現れるのが、鳴り物入りで日本種牡馬となったダンシングブレーヴ産駒のキョウエイマーチであった。ダンシングブレーヴは初年度からエリモシック(エリザベス女王杯)を輩出し、その翌年にはキョウエイマーチ、またその翌年にはキングヘイロー、その数年後には2冠牝馬テイエムオーシャンを出すなど、その戦績にすれば物足りないが、日本競馬界にとっての荒波の一つであったことには間違いがない。

ドーベルは3歳時にものちに偉業をなすシーキングザパールを倒しており、この世代、いやこれからの時代において、ドーベルは常に外から来た刺客と激戦を繰り広げることになる。

結果としてクラシック初戦の桜花賞においてキョウエイマーチに敗れたドーベルではあるが、続くオークスでは雪辱し、秋華賞でも打ち破り、最優秀4歳牝馬および最優秀父内国産馬を受賞する。おもえばこの「最優秀父内国産馬」という称号は2007年に廃止になるまで続くが、メジロはメジロアサマ・パーマーとドーベル、そしてブライトと4回受賞馬を輩出している。

この賞の最後の受賞馬は10年後、2007年ダイワスカーレット。サンデー産駒のアグネスタキオンから産まれた牝馬の躍進をもって、日本競馬が「海外」を食べ、「消化」するのにこのくらいの期間がかかったという目安にはなるのかもしれない。

ドーベルに同年代最強牝馬の名を譲ることになったキョウエイマーチは短距離・マイル路線に進むことになるが、その後はタイキシャトルの厚い壁にぶち当たることになる。


第二の敵 エアグルーヴ(父・トニービン)

最大の宿敵ともいえるエアグルーヴといよいよ直接対決をしていくことになるのだが、このエアグルーヴも凱旋門賞馬トニービンが日本に輸入され生産された外的勢力の1頭ともいえる。トニービンはすでにベガやウイニングチケットなども輩出する一大勢力となっていたが、最高傑作はこのエアグルーヴか後のジャングルポケットになるのかもしれない。
ただ、その後トニービンもトーセンジョーダンから活躍馬は出ず、ミラクルアドマイヤから続くカンパニー産駒のウインテンダネスが唯一の直系種牡馬として残るばかりで、現在ではゼダーン-トニービン系もまた名を消して行く流れになっているのも栄枯盛衰である。


このエアグルーヴが20世紀で最も評価された基準は、やはり17年ぶりの牝馬による天皇賞秋制覇、ならびに同年の26年ぶりの牝馬による年度代表馬の受賞によるものが大きく、これが現代だったらどうだろうかという感覚はある。

この後ウオッカによるダービー制覇(64年ぶり)やダイワスカーレットによる有馬制覇(37年ぶり)など、牝馬は2000年代後半から大きくその競走馬としての地位や在り方を変えていくことになるが、その先駆けとなったのは日本においてはエアグルーヴとみなされるのだろう。

その女帝エアグルーヴを4回目の対戦にしてついに打ち破り、エリザベス女王杯を手にしたドーベルは最優秀5歳以上牝馬を受賞し、この場面をもってまさしく新女王を戴冠したといってもいいだろう。

エアグルーヴはその後エルコンドルパサーにジャパンカップで2着に敗れ、同年の有馬記念をグラスワンダーの5着に敗れ引退。
その陰でドーベルは有馬9着と良いところがなく、牡馬相手には好走もできないというイメージで、エアグルーヴに対しG1獲得数ではこの時点でも上回っているのにも関わらず、やはり牝馬という枠を抜けきれないというイメージを後世評価としてはぬぐい切れなかったのだろう。


第三の敵 ファレノプシス(父・ブライアンズタイム)

あまり(ウマ娘界隈では)話題に上ることはないが、胡蝶蘭の名を冠したこの牝馬も只者ではない。
母キャットクイルはビワハヤヒデやナリタブライアンを産んだパシフィカスの半妹で、パシフィックプリンセスにノーザンダンサーが入っていたところにストームキャットを入れ込んだ違いしかなく、父ブライアンズタイムという点からもうそのまんま血統的にはナリタブライアンのグレードアップなのである。

見返してみると1998年のオークスは明らかに足を余している感があり、ほかの勝ち方を見ても、ファレノプシスは3冠牝馬になる能力が十分すぎるくらいあったとしか見えない。チューリップ賞での騎乗ミスやオークスでの判断ミスがなければ、それこそ無敗の3冠牝馬になっていても全くおかしくないと思えるくらいに能力は突出していたように感じる。

そのファレノプシスは結局6着に沈むが、その対決となったエリザベス女王杯連覇をもってメジロドーベルは引退。
最優秀5歳以上牝馬を受賞し、4年連続のJRA賞受賞は特別賞を除けば同じ牝馬のブエナビスタまで時を待つことになる。
(※特別賞を含めればウオッカだがこれも牝馬)

ちなみにファレノプシスはその翌年のエリザベス女王杯を制しており、そのレースをもって引退。
さらにちなむとファレノプシスの母キャットクイルはさらにスケールアップして父にディープインパクトをつけたところ産まれたのがキズナ。
そのキズナ産駒として初のG1制覇を成し遂げて大波乱を産んだのが今年のエリザベス女王杯のアカイイトである。


こうして各世代において常に牝馬最強の称号を手にしてきたメジロドーベルではあるが、その敵わない敵は実質的には牡馬ではなく、時代そのものだったように思える。
牡馬には勝てない、のではなく、そもそもメジロの集大成をもってしても変わりゆく時代そのものに勝てなかった。
牝馬としての数々の栄光は、抵抗の末にがむしゃらにつかみ取れた唯一の花のように感じられてならない。

メジロドーベルは活躍馬を産むことはできなかった。
もしドーベルが牡馬だったとしたら、メジロの期待の新種牡馬として救世主になれただろうか?自分はそうは思えない。

ただ、エアグルーヴ達と繰り広げた激戦などを介して、ともに牝馬の競争能力への模索を始めるきっかけを作り上げた、すべての競争牝馬の母ともいえる存在の一人にはなれたのではないだろうか。

エアグルーヴがいなければ、牝馬がダービーに挑み、勝ち取るような思考は数年遅れたのではないだろうか?
そのエアグルーヴを打ち破った、日本の、メジロを背負った少女がいた。

彼女はメジロ牧場の施設を引き継いだレイクヴィラファームにてリードホースとして存命中である。


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