私が勝つんだから!

皆さんは日本ダービーというと、どの勝ち馬を思い浮かべるだろうか?
いや、今風に言うならどのウマ娘?ってなるかもしれない。

やはり日本ダービーは日本最古のGⅠレースということもあり、天皇の名を冠するレースよりもある種の威厳をもってホースマンたちの、ファンたちの思い入れが入り混じる最高峰の舞台だとは誰しもが思うところだろう。

ダービー史を語ると1冊の本になりそうな中、漫画「シンデレラグレイ」を読み返し、4巻の表紙も飾っているサクラチヨノオーが勝った日本ダービーの話をしてみたい。

正直な話をすれば、この時代においてのサクラチヨノオーの評価は後世から見ればさほど高くないだろう。
このダービーを勝った後サクラチヨノオーは復活することなくターフを去り、その舞台では「出ていれば3冠だって取れたのでは」といわれる葦毛の怪物オグリキャップが絶大な人気を得ていたし、そのライバルである同じ葦毛のタマモクロス、天才を天才にしたスーパークリーク、等々、
サクラチヨノオーが埋もれる理由はその戦績だけの話ではなく、競馬界そのものが大きく動いていたからだ。

「サクラ」の名を冠する馬は数多くあり、その馬主であるさくらコマースの話はまあややこしくなるので省くが、そのサクラ軍団にとってもダービーは特別であった。

サクラ軍団は長きにわたり競馬界に君臨したが(今でも縮小はしているが参加はしている)ダービーを獲れたのはたったの2回。
1978年のサクラショウリと1988年のサクラチヨノオーだけである。

サクラ軍団はバクシンオーやユタカオーに代表されるような短い距離から2000Mくらいまでに強い馬が多く、ことステイヤーの素質があったとまで言えるのは1995年からのサクラローレルくらいしか自分には出てこない。

強力な馬を多く持ちながらダービーが獲れない、なんてことは普通に良くある話で、何しろ運が無ければ獲れない。
それはライバルであったり、地方からの参戦という境遇であったり、はたまたケガであったり。

シンデレラグレイにおいてはオグリの不参加がクローズアップされ、チヨノオーは主役不在の中たまたま勝ち取った栄冠のように見えてしまった人も多いのではないだろうか。

自分には、スズカが、ライスがウマ娘になるのなら、この馬がいたこともみんなに知ってほしいと切に願いたい競走馬がいる。

名前をサクラスターオーという。

1978年にダービーを勝ったサクラ「ショウリ」と、サクラ「スマイル」との間に生まれたこの馬は、父が獲ったダービーに出走も叶わず2冠馬となり、その最期は悲しみが埋め尽くした。
スターオーが息を引き取ったのは1988年5月12日、チヨノオーがダービーを勝つ直前のことだった。

また、これはわかる人も多いだろうが、チヨノオーの父マルゼンスキーは外国産馬としてダービーに出走がかなわなかった名馬として知られている。大外だのなんだのというのは有名ですね。
種牡馬になってからも多数の名馬を輩出したマルゼンスキーですが、その直仔でダービーを獲ったのはサクラチヨノオーだけなのです(母の父としては総大将スペシャルウィークやウイニングチケットがいます)

また、同じ母と父の全兄であるサクラトウコウも怪我のためダービーに出走できずに終わっており

なんというかですね……

このチヨノオーの周り、ダービーについて不運すぎるんですよ。

そんな中、チヨノオーは勝ちます。


サッカーボーイやヤエノムテキは距離が合わなかったのかもしれません。オグリキャップが出ていたら負けていたのかもしれません。
けれど、チヨノオーはほぼ負けたと思ったメジロアルダンを、何かに押されるように差し返してダービー馬になるのです。さあgoogle先生に「チヨノオー ダービー」でお願いして動画を見るのです。

ここで皆さん、シンデレラグレイの4巻の26Pを見てください。

『私が勝つんだから!』

チヨノオーは桜の涙を流しながらそう吠えます。

勝たせてあげたいと、そう思えませんか。
この娘には、このダービーのこの瞬間だけに入れるゾーンがあったようにすら思えます。

どちらかといえば目立たないダービー、「伝説」の陰に隠れた栄冠。
でもそこにはきっとこういう物語があるんじゃないかなあ、って思います。

チヨノオーはまるでその一際の大輪を咲かせるために走っていたかのように、その後ケガから復帰しても結果を出せず引退します。まるで桜のようだな、ってその競走馬としての在り方に感じます。

ちなみに自分は4凸です。
ファインがスピードスターくれないんで先行スタミナ枠で結構使うんですが、あげませんって結構言われます。
褒めたんだからください。

可愛いよね。

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