第一章 動乱前夜 第十服 宣驕勝長
宣長に勝ちて驕る
わすれても汲やしつらん旅人の
高野の奥の玉川の水
高屋城の南に万にも届こうかという軍勢が姿を現した。畠山義宣は我が目を疑うしかない。ほんのふた月ほど前――九月十八日に野田の戦いで敗れ、大和に落ち延びた畠山稙長がどうやってこれほどの軍勢を揃えたのか。
続く十月一日に菱木の戦いで敗れた細川晴宣は這々の態で逃げ帰り、香西元盛や柳本賢治も行方不明になるほどの惨敗で細川高国も兵を失っていた。この短期間でこれだけの軍勢を領国で集めることは難しいというより、有り得ない。冥府の門をくぐって黄泉帰った死者の軍勢のような悍ましさを感じた義宣は恐怖から逃れようと叫ぶしかなかった。
「四郎左衛門尉に五郎左衛門尉だと? 彼奴らは行方不知ではなかったのか……!?」
「――御屋形様っ!」
血の気が引いて膝から崩れ落ちた義宣を、脇に控えていた遊佐河内守就盛が、悔しさを滲ませた表情をしながら支えた。ようやく取り戻した高屋城である、誰も手放したくなどない。義宣にそれを進言できるのは畠山総州家筆頭宿老の就盛しかいないが、言葉にするのを逡巡していた。
遊佐氏というは、出羽国飽海郡遊佐郷を本貫の地とする一族で、畠山氏が奥州探題に任じられて以来仕えている。出羽・河内・能登・越中と畠山氏が勢力を拡大するとともにその守護代として入部した。その連枝は河内守護代・河州家を惣領家として、越中守護代・越州家、能登守護代・作州家、紀伊守護代・筑州家が金吾家に、総州家と丹州家が奥州修理大夫家に仕えている。
遊佐就盛は畠山金吾家の家宰である河内守護代だが、河州家当主ではなく、越州家当主・越中守盛貞の子である。惣領の河州家当主・就家が文亀元年に歿し、嗣子がまだ生まれたばかりであったため、畠山上総介義英は就盛を河内守護代に任じた。越中守護代は、就盛長子・孫三郎基盛が継いだが、先年歿したため、現在は就盛次子・孫次郎が当主となり、中務丞英盛を名乗っている。
就家の遺児は現在、英家と称して郡代を務めており、義宣としてはいずれ河内守護代を引き継がせる心算であった。
遊佐氏で河内守護代となったのは惣領家の遊佐国長が初めてで、畠山基国・満慶・満家に仕えた。国長の跡は子・国盛が河内守護代を継ぎ、その子の国政が越中守護代となる。国盛・国政父子は畠山持国が更迭されるとその弟・持永を支えたため、嘉吉の変で復帰した持国によって没落した。河州家は国政の弟・国助が継ぎ、持国より山城守護代に任じられる。国政の子・盛貞も越中守護代を継いで、国助とともに持国に仕えた。
幕政に復帰した持国であったが嫡子に恵まれず、しかたなく実弟・尾張守持富を養嗣子とした。しかし、晩年の文安五年、石清水八幡宮の神宮寺に出されるはずだった庶子・聡勝丸を召し出すと、これを義政公に拝謁させる。聡勝丸は偏諱を受けて、義夏を名乗り、嫡子となった。
但し、義夏の母は桂女であった。桂女とは遊女のことで、元は小笠原長将の子・彦次郎持長の妾である。その上、飛騨江馬氏との間にも子がおり、故に家臣らから義夏は持国の実子ではないと疑われた。
これが畠山氏の内訌の原因である。
廃嫡された持富は失意の中死去し、同情した越中衆や紀伊衆の非主流派や庶流の家臣らは持富の遺児・弥三郎政久を担ぎ出した。持富が尾張守であったことから、一派は尾州派と呼ばれる。
一方、義夏は宝徳三年、伊予守となり地歩を固めた。それでも尚、越中・紀伊衆らが政久を擁立する動きを見せ続けたため、業を煮やした持国が尾州派の追放を決する。享徳三年四月三日、国助らは尾州派の越中守護代・神保越前守国宗らの屋敷を襲撃。しかし、政久らは細川勝元、山名宗全、筒井順永に支持され、細川京兆邸に匿われた。密かに反撃の機会を待った越中守護代・遊佐備後守長直と紀伊守護代・遊佐筑前守国房、神保国宗らは八月廿一日挙兵、義夏らの屋敷に火を放ち、同廿八日持国を隠居に追い込む。形勢不利を悟った義夏は伊賀に落ち延びた。
義政公に畠山金吾家の当主と認められた政久は、既に偏諱を受けているにも関わらず、「義」の字の偏諱を強請り、後見の山名宗全の推挙もあって義富と改める。だが、後見である山名宗全は十一月二日に赤松氏の出仕を巡り義政公と対立、宗全退治の号令に諸大名の軍勢が京都に集結する事態を招いた。細川勝元が取り成したことで宗全は事なきを得たが、家督と守護職を嫡子・教豊に譲り、但馬へ下国、隠居する。
同年、赤松満祐の甥則尚が播磨で挙兵、教豊の子・政豊を攻めた。十二月六日、宗全と教豊は但馬から出兵。その間隙を突いて、同月十三日、義夏が河内より兵を率いて上洛して義富を京から逐い、これにより持国が金吾家の家督に返り咲いた。
翌享徳四年二月七日、義政は大和国興福寺に対し義富に協力しないと通達、義夏は左衛門佐に任じられて義就と名乗りを改めた。同年三月廿六日持国が歿すると義就が畠山金吾家を継承。さらに、義就は分家の能登守護畠山義忠や幕府奉公衆と共に河内・大和に転戦。七月二日、大和国人越智家栄をして尾州派の成身院光宣・筒井順永・箸尾宗信らを没落させ、尾州派の領地は幕府直轄領となった。
康正三年五月十二日、義就が興福寺大乗院領池尻荘に段銭――田畑一反あたり何文と課せられる臨時の税――を課したため、七月に大和の争乱が起こる。義就は上意を偽ったことが露見し、所領を没収された。総州派大和国人の横領も問題になり、義政から国人への治罰の命令が通達されたため、義就は撤回を奏上するが叶わない。九月廿九日には山城木津城で再び上意を詐称して細川勝元方と合戦に及ぶも、十月二日に義政の命で撤兵、次第に義政の信頼を失っていった。
翌長禄二年九月廿二日、宗全と義就に石清水八幡宮の八幡神人討伐の命が下る。これは康正二年十月に石清水神人が淀川の大般若関を破り、同十二月内蔵寮河上関を破るなどの狼藉を働き、義政公の逆鱗に触れたからだ。
神人とは、神社の社家に仕えた神事・社務の補助や雑役に当たる下級神職を指す。神人どもは社頭――社殿の近くやその御前――や祭祀の警備に当たることから武装しており、特に石清水神人は淀の魚市の専売権・水陸運送権などを有した座を結成していた。長禄二年九月廿八日、石清水八幡神人らの拠点であった郡津は灰燼に帰す。
長禄三年六月、尾州派の成身院光宣・筒井順永らが勝元の軍勢に守られ大和へ帰国、総州派の越智家栄と合戦となった。義就は援軍を派遣したが、光宣の訴えで細川勢の大和派遣も決まる。七月廿三日には義富が赦免となったため大和での総州派は不利となり、越智家栄は敗れて没落、光宣らは勢力を回復した。義富は間もなく死去したが、弟・弥二郎富長が尾州派の遊佐長直・神保長誠・成身院光宣らによって擁立された。
長禄四年五月十日、義就分国の紀伊国で根来寺と義就勢が合戦を起こし、義就勢が大敗。遊佐国助・誉田祥栄・誉田金宝など有力家臣が討死した。義就は報復のため京都から紀伊へ援軍を派遣するも情勢は不利のままである。
更に、九月十六日に幕府から富長に家督を譲るよう命じられ、九月廿日に富長が幕府へ帰参、義政より偏諱授与を受けて政長と改めた。権勢を失った義就は河内へ没落、綸旨による討伐対象に定められ、朝敵に貶められた。
同年十月、義就は大和国龍田で政長・光宣らに再び敗れたが、同寛正元年十二月十九日より南河内の嶽山城に籠もって、討伐に下ってきた政長、光宣、細川軍、大和国人衆らの兵と二年以上も戦い続ける。しかし、寛正四年四月十五日に成身院光宣の計略により嶽山城は陥落し、義就は紀伊へ逃れた。
紀伊から吉野に移り、逼塞していた義就だったが、同年八月八日に義政生母の日野重子が死去したことに伴う大赦が行われ、翌九月十八日に斯波義敏や鍋かぶり上人・日親らと共に赦免される。十月に入ると細川勝元に対抗する山名宗全・斯波義廉の支持を得て、活動を再開した。
寛正五年、政長が勝元の従妹を娶ると、十一月十三日、勝元は管領を辞任、政長が後任の管領に就く。
義就は寛正六年八月に挙兵。文正元年八月廿五日、大和から河内に向かい諸城を落とした。大和では総州派の越智家栄・古市胤栄も挙兵して尾州派の成身院光宣らと戦ったが、十一月に十市遠清の仲介で両者は和睦する。十二月、河内から義就が上洛、義政との拝謁も果たし、政長に畠山金吾邸の明け渡しを要求し、管領職を辞任させた。
翌文正二年一月十八日、両派の軍が上御霊神社において衝突し、義就は宗全や斯波義廉の家臣・朝倉孝景の協力を得て政長を破り、この御霊合戦により山名派の義就・斯波義廉が有利となる。
同応仁元年五月廿六日、細川勝元派が山名宗全派を襲撃し、上京の戦いが起こり、これが応仁の乱の始まりであった。
義就は宗全率いる西軍に属して、東軍の政長と戦い、内裏や東寺に陣取り十月三日の相国寺の戦い、翌応仁二年の東軍の傭兵骨皮道賢討伐にも参戦。三月廿一日、骨皮道賢は布陣した稲荷社を大軍に囲まれ、女装して包囲網を脱出しようとしたが露顕し、朝倉孝景の兵に討ち取られ、首は東寺の門前に晒された。骨皮道賢はその最期を
昨日まで稲荷廻し道賢を
今日骨皮と成すぞかはゆき
と皮肉られている。骨皮道賢は史書にもたった六日間しか登場しない目附の頭目で、侍所所司代の多賀高忠に仕え、盗賊の追捕を行っていた。
義就は西軍の主力として河内・大和・摂津・山城を転戦。文明元年には西岡の戦いで、東軍寄りだった山城西部の乙訓郡を占拠。郡衙として築城した勝竜寺城を根拠として山崎に陣取った西岡国人衆や山名是豊・河内の尾州勢と戦った。文明二年、義就は軍勢に山城国相楽郡にある鹿背山城を落城させ、木津元英を討ちとる。
文明五年、宗全と勝元が相次いで死去すると、東西両軍の媾和が進められたが、義就は媾和に反対した。そのため西軍内で孤立し、文明九年九月廿一日、政長討伐のために河内へ下り諸城を陥落させた。十月九日に尾州家河内守護代・遊佐河内守長直を若江城から逐って河内を制圧する。越智家栄と古市澄胤らも大和を制圧、尾州派の筒井順尊・箸尾為国・十市遠清は没落し、義就は河内と大和を実効支配した。
翌文明十年、政長が山城守護に任じられると山城国を領国化しようとして東軍首脳部の反発を買い、寺社本所領の課税を撤廃させられ面目を失う。これが山城国一揆の遠因となった。
同年十一月十一日、細川政元によって東西両軍が媾和し、西軍諸将は相次いで帰国して解散、応仁の乱は終結。だが、媾和に反対した義就は幕府に従わず実効支配を続けた。
文明十四年三月八日、遂に幕府から義就追討を取り付けた政長は細川政元とともに出陣、六月十九日に山崎から摂津茨木へ進軍した。しかし、義就は七月十六日に政元と単独媾和、名目上政長が領有する河内十七箇所と義就が実効支配する摂津欠郡――東成郡・西成郡・住吉郡の三郡――の交換を条件に政元は撤兵。閏七月十九日、政長は摂津尼崎から船で堺に上陸。久米田寺で待機して紀伊粉河寺・根来寺の援軍と合流、八月奥河内の正覚寺で誉田城を守る義就と対峙した。
義就は小競り合いをしながら反撃の機会を伺い、十月に河内から南山城へ別働隊を向かわせ奇襲をかける。大和国添下郡鷹山荘の領主鷹山頼栄が義就に帰参、義就軍は十二月廿七日に山城南部の草路城を落とし上三郡(久世郡、綴喜郡、相楽郡)を平定、翌文明十五年四月には相楽郡狛城も落城、山城南部を掌握した。完全に不意を突かれた政長方は宇治川流域の北部で抵抗を続け、宇治橋を切り落として義就方の北上を阻んだ。
政長は挟み撃ちの危機に陥ったが、幕府の支援と分国からの増援を期待して正覚寺に留まる。そして戦費調達のため、八月、山城に初めて半済を課した。半済とは、幕府が荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めたことを指す。越中からは三〇〇〇の軍勢を呼び寄せた。山城南部の義就軍は十七箇所を狙い北上して八幡に集結、別の一隊は河内・山城・大和の国境に布陣して河内からの政長方の侵入を妨害する。八月十三日、義就軍は八幡から十七箇所へ侵攻。十七箇所は淀川と深野池に挟まれた低湿地で、淀川が長雨で増水していたことを利用し、廿二日に淀川堤防の大庭堤・植松堤を決壊させ十七箇所を水攻めした。十七箇所の戦いにより十七箇所は孤立したが、淀川上流で河内北部の犬田城で尾州勢はなおも抵抗、九月三日に京都から尾州派の遊佐長直が椎名長胤ら越中勢を率いて義就軍に包囲された犬田城の後詰に向かう。九月九日に両軍は犬田城付近で対峙、十七日に戦闘が起こり政長軍は敗北、椎名長胤は討死、遊佐長直は負傷して淀川を渡り正覚寺へ逃亡、敗残兵は犬田城へ収容された。廿六日に犬田城は落城、義就は河内を実質的に平定した。
河内南部で政長と義就が対陣を続けている最中に山城南部と河内北部は義就方に制圧されたが、文明十七年七月、山城南部の斎藤彦次郎国宗が政長に寝返り山城の戦線は膠着状態となる。十月まで両畠山軍が駐屯を続けたことから、十二月十一日に山城国人が決起して国一揆を結成、交渉の末に十七日に両畠山軍を撤退させた。そんな中、義就嫡子の修羅法師義基が夭折する。
寛正元年《西暦1460年》政長に敗れた義就が若江城に避難すると政長がこれを攻め、国助は戦死、以後、備後守長直が河内守を名乗った。若江城は国助の女婿であった弾正忠就家が継ぎ、明応二年閏四月廿五日、正覚寺城の戦いで長直を討って就家が河内守を名乗っている。
「ここは退かれませ」
就盛は絞り出したかのような低い声で、義宣に告げる。義宣はその場にうずくまり、嗚咽のような声を挙げた。
「何故こうなるのだ! 年が明けたら大和へ攻め込むのではなかったか!」
就盛はじっと若い主君が落ち着くのを待った。ようやく、ようやくである。長きに亘る河内畠山の内訌を終わらせることができると喜んだのも束の間であった。一頻り喚き疲れたのであろうか、義宣の声が熄む。ややあって顔を上げた。
「尾州奴に頭なぞ下げぬ。落ちるぞ」
「既に支度は整うて御座いまする。英盛!」
「応っ!」
就盛の後ろに控えていた偉丈夫が、義宣の前に出て移動を促した。城から打って出て、敵陣の最も薄い箇所から離脱する――という手もあるが、城の北裏手からは敵陣に見つからぬ水の手がある。高屋城には石川から引き込んだ水濠があり、万に満たぬ軍勢では囲みきれぬほどに巨きかった。東に石川、北と西は水濠に囲まれ、稙長率いる大和衆では攻め口は南に限られる。水軍が居なければ、高屋城を取り囲みきることは不可能だからだ。水軍は河内にはなく、和泉にあり、今は細川元常の麾下――つまり、味方である。
その南の大手門の前に、畠山稙長が陣取っている。越智弾正忠家頼と筒井良舜坊順興の手勢が両翼を固め、その後方に香西四郎左衛門尉元盛、柳本五郎左衛門尉賢治、そして後方中央の後備に細川六郎太民部少輔稙国が控えていた。
細川稙国 兵二〇〇〇
香西元盛 兵 五〇〇
柳本賢治 兵 五〇〇
畠山稙長 兵二〇〇〇
越智家頼 兵二〇〇〇
筒井順興 兵二〇〇〇
城に籠もる兵は二〇〇〇にも満たない。領内巡察に兵を割いたからでもあり、年明けに大和侵攻を企図していたため、早々に豪族らの帰着を許したからだ。
夜陰に紛れ、畠山義宣一党は城を落ち延びる。こうして国分の戦いは幕を閉じた。大永四年十一月廿日のことである。
六日後、押子形《がた》城に詰めた畠山義宣は、雲霞のごとく押し寄せる稙長勢を無気力に眺めていた。たった二ヶ月でこうも形成が逆転するものなのか。何処で打つ手を間違えたのか。
「御屋形様」
武者姿の就盛が、傍らに跪く。敵の出方次第ではあったが、押子形城の次は天野の仁王山城へ落ちると決めていた。誉田屋形を中心に北は押子形城、西に仁王山城、東に石仏城がある。石仏城は大和口にあたるため、落ち延び先として省いた。敵主力が大和衆である以上、誉田東部は敵の影響圏内となる。南の旗蔵山には南北朝時代の旗蔵城があるが、これは砦ほどの規模で立て籠もるには向かなかった。あくまで高野山との連絡線を確保するための守衛である。
「仁王山のあとは、高野山を頼るしかないか」
「無念なれど、捲土重来の機会は必ずやありまする!」
稙長勢の士気は高い。軍勢が多いこともあるが、義宣が戦わず兵を退いたことで楽勝気分が広がっていた。ここであと数日粘れるならば、細川元常の和泉勢が高屋城と誉田屋形の補給線を脅かす要請を聞き入れてくれれば――
「たられば噺で戦はできぬよな」
「刑部大輔殿にござりますか」
大きく肯く。彼我が逆のときに、自らが兵を出すかを考えてみたらいい。義宣が細川元常の親族であったり、細川元の重臣であるならば、兵を出し惜しみすることもないだろうが、同じ三管領の畠山金吾家の当主であった。答えは明快である。
「答えは自ずと決まっている」
「兵は出さぬ、と」
諦め顔で嘆息を吐く。
「そちとて立場が逆なら兵は出さぬよう諫言しよう?」
「それでは約束が違いまする」
確かに、畠山義宣を見捨てぬという約定で兵を挙げた。しかし、この戦国の世でそのような約定が当てになる筈もない。それとて兵を集めるには役立ったのだ。それだけでも良しとするしかあるまい。
「河州よ、そちが当てにしていたとは思えぬが」
「当てにはしておりませぬが、相手の非は打ち鳴らせまする。御屋形様と兵らの今後を支えてもらわねば」
今、兵を失わずに退けば次がある。そういう話だ。助けに来ぬなら、押し掛けるまで。就盛の肚を読んで、義宣は大笑いした。
「なるほど、な。それもそうだ」
「では、高野山に参じて、その後堺から阿波に渡るといたしましょう」
先が見えたことで、義宣に落ち着きが戻る。そして、主従はと兵を散じて城をあとにし、高野街道を南に向かった。兵たちには堺へと落ちさせるように言い含める。
十一月廿六日、押子形城落城。
十二月五日、仁王山城落城。
こうして、河内国は畠山尾張守稙長が制圧した。
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