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【ネタバレ感想】魅力的な誘い「OMORI」:ゲームレビュー

別のnoteで、RPG「OMORI」のネタバレなしレビューを書いた。

今回は、ネタバレにつながるクリティカル情報を出しつつ、そこから連想したあまり本作に関係のない感想をだらだらと書いていく。ただし、プレイした人が、「あぁあれのことね」と読める程度の内容にとどめ、決定的なネタバレを書くことは避ける。

未プレイ・完全クリア前の方や、本作自体の深い考察が読みたい方は、ブラウザバックしてほしい。








自分をいかにして守るか

本作のメインテーマは、「苦しみや悲しみへの対処」ではないだろうか。

ゲーム中にも様々な対処をする人々が描かれていた。自分の殻にこもることで自分を守る人もいれば、自暴自棄になって荒れる人も、別の形で苦痛を昇華させる人もいる。

一方、悲しみや苦しみは必ずしも乗り越えなくてもいい、ずっと抱きかかえていても、一緒に暮らしていてもいい。ただし、それはそれで苦痛には違いない。

どの選択もきっと正解で、きっと不正解だ。そしてその人の選択は、Steam版「OMORI」のゲーム紹介文にもあるように、周りの人々にも影響を与える。

目をつぶっても、他に目を向けても、どうしようもない現実はただそこに横たわっていて、何かしらの歪みは残る。自分がいなくなっても、残された人々に歪みは残る。

どの選択肢にも、人間くさい甘さがつきまとう。結局のところ、私達は自分可愛さに、納得の行くベターな選択を選ぶしかない。

しかしどの選択を選んだとしても、選んだ人を責めることは、きっと何者にもできない。いわゆる防衛機制という、ごく当たり前の反応だ。そこに甘さはあるものの、甘えではない。

自分の選択を他人に強制することもできない。他人に影響を与えるといえど、その人が感じる悲しみや苦しみは、その人だけのものだからだ。

私はゲーム中、納得のいく選択肢を見つけた。正直これしかない。たった一人の部屋で、ただ電話が鳴り響くだけ。劇的でもないが、これが一番美しいと思った。それ以外は、「How did you do that!?」。

それでも選択後の世界で何が起こるかは、想像に難くない。だから現実の私は、プレイ当時に防衛機制の只中だった私は、それを選べなかった。ふとした時にベランダに吸い込まれるような感覚に襲われながら、生活していたけど。

重ねて断っておくが、これはあくまで私の選択で、他人に強要すべきでないし、他人から批判される云われもないし、「何か」と私がこれからどうやって生きていくか、私が将来何を実行するかも、また別の話だ。

陽の光を浴びることはトゥルーエンドか

本作では、ある人物による「告白」がハッピーエンド、そしてトゥルーエンドのように描かれているように思える。このエンドの最後にキャラクターが見せる表情は、安堵の笑顔だ。ただし、告白後のエピローグは詳しく描かれていない。

私はこのエンドにあまり納得がいかない。周りの人間は、はたして告白を受け入れられるのだろうか?墓まで持っていくべき秘密というものも、人生にはあるだろう。

告白は、きっと新たな苦行の始まりだ。告白した人物は、このあとどうやって生きていくのだろうか。生きていられるのだろうか。

何も真相がわからないままに残されることと、聞きたくない真実を打ち明けられること、どちらが周りの人間の幸せなのだろうか。

しかし本作、必ずしも告白エンドばかりをフィーチャーしていない。別のエンドでは、あのサイケな初期トレーラーで使われていた曲「My Time」が流れ、特別な演出が入る。きっとこれもひとつの救いの形であるかのようだ。しかし同時に、ひとつのどうしようもない結末だと言っているように見える。

本ゲームは、どのエンドもスッキリしない。しかし変に円満なエンドがあれば、それこそスッキリしないだろう。なんてリアリティがあって、なんてグロテスクなんだ。

救いはどこにあるのか

本作がトゥルーエンドをあのエンドに設定したことのモヤモヤ、そして当該エンドをそこまで過剰に持ち上げなかった安心感。これはどこから来るのだろうか。

生きなきゃ、というプレッシャーが私は嫌いだ。生きることの良しも悪しも、それは絶対に他人が決めることじゃない。

特にネット黎明期に流行ったボカロ曲やアニメ、ネット言説には、「生きなきゃ」と反対の「弱音」(本当は弱くなんかないと思うのだけど)を吐ける空気があったように思う。少年ジャンプにも、24時間テレビにもない空気。

私はそんな場があっていい、無きゃ困ると思うし、それがアングラ、サブカルチャーの役目であると考える。毎日感動ポルノを流されたら、それこそ地獄だ。

だから各エンドが過剰にハッピーにも、バッドにも描かれていなかったことに、私は安堵した。

(ただ断っておくが、私は死をけして礼賛しない。死は不可逆だ。死ねばもう二度と次の選択ができない。

死が救済になる人も、もちろんいるだろう。人のそれに反対し止めようとするのは、「あなたとこれからも一緒にいたい」という私の単なるエゴで、何の正統性もない。

しかし社会が死を救済として礼賛すると、必ず選択を早まったり、「思いやり」で殺されたりする人が出てくる。だから私は絶対に、死を礼賛しないことにした。

あくまで私個人の選択肢として、そこにあってほしいだけだ。)

しかしこの、サブカルチャーが担ってきた生の相対化が、今日表の世界に顔を出し、メインカルチャーの一部として、大手を振って歩きだしているように感じる。

私はYOASOBIの「夜に駆ける」という曲が、怖くて仕方がない。綺麗な曲だし、小説を題材にした曲らしいと頭で分かっているが、私には心中の曲としか聞こえない。スーパーの有線で曲を耳にするたびに、宙を落ち続けるアニメーションが頭をよぎる。ピンク色の優しい世界が、魅力的な死へと誘う。

流行当時、希死念慮の酷かった私には刺激が強すぎた。いつか私を支えてくれている夫を不幸に、道連れにしてしまうのではないかと、聞くたびに不安にさせられた。

ネットの世界にくらい、そういう感情の受け皿があっていい。でもそれらが無臭なままに、表の世界ではびこりだしたら。スーパーで買い物をしているときに、ふと死に誘われたら。

サブカルチャーもメインカルチャーになれば、それはただの新しい権威だ。この曲はあくまで発想のきっかけにすぎず、この曲を批判したいわけじゃない。この曲が流行した表の世界の、死に対する「開き直り」めいたものを(特に困難を抱えた人たちの死)、時代的な背景(「一人で死ね」言説など)も合わさって、私は強く感じるようになった。

そうした考え方が、表通りを堂々と歩きだしたように感じる。政府広報が自○防止の呼びかけをさかんにしているけど、結局命の尊さとかはどうでもよくて、単に自○者の増加は経済的損失だからなんじゃないの、とうがってみてしまう。

表の世界くらいは、大真面目に、勘定なしに、「生きよう」と言い続けていてくれないと、私は立てなくなってしまう。感動ポルノは嫌いだが、Eテレみたいな息をするような生の肯定が、ときどき私には必要だ。

あくまで生きることを、控えめながらトゥルーとして描いた本作に、私は救われたのかもしれない。しかし同時に、生きることもグロテスクな選択肢に他ならないことを、本作は描いている。

負の感情を叫ぶ

一方、「辛い、苦しい、嫌だ」などというような感情(この場合は負と呼ぶのも語弊があるだろう)を表現できる場、安易に退けず真剣に向き合ってくれる場は、表でも裏でも、世の中にもっと存在していてほしいと私は思う。子供の頃と違って、自然と隠して生きてしまうから。

それを禁ずれば、それが道徳的に間違っていると言えば、一番先に口をつぐまされるのは、社会的弱者だ。様々なマイノリティが叫んできてくれたから、今の社会がある。叫ぶことは大事だ。

しかし、負の感情を持ち、吐き出すことが認められたからと言って、社会的弱者の抱く負の感情は自己責任化されがちだ。叫んだところで社会が変わるわけじゃない。死んじゃだめだと言うくせに、生きるための手助けは誰もしちゃくれない。

ところで、「夜に駆ける」と同様に、Adoの「うっせぇわ」が表の世界で流行したことも衝撃だった。こんな陰湿な感情を、表の世界で吐き出していい、それが評価される時代が来たんだと、高揚感を覚えつつ、恐怖を感じた。

あの曲自体は、「弱い」立場からの逆襲の視点と、露悪のどうしようもなさを冷笑する視点が含まれるように思えるが、大衆の受け取り方は少なくともそうじゃないだろう。そうした意味での表の世界の「開き直り」も、私は昨今強く感じている。

社会的弱者の異議申し立ては相変わらず聞かれないのに、社会的強者やマジョリティの負の感情だけが「よく言った!」と「いい子いい子」される。負の感情はいつ何時でも、誰に対しても、どんな関係性でも吐き出していいかのように扱われる。それが明らかに自分より立場の弱い他人を傷つけることになっても。

人の辛さと加害者性は、別のものだが、同時に存在しうる。一方的な被害者にとって、加害者が抱える辛さは関係がない。加害は加害だ。被害者に辛さを植え付けた張本人だ。しかし加害者が辛さを抱えているならば、その事実もまた、揺るがない。被害者性と加害者性は両立する。苦しみと加害者性は両立する。それらは相殺するものでも、加害を正当化するものでもないが、被害者と加害者が自分の辛さを叫んじゃいけないわけじゃない。問題は誰にどのように吐露するかだ。

本作では、弱音を受け止めてくれる友人たちがいる、優しい世界が描かれた。しかし彼らは、「告白」することでいなくなってしまうかもしれない。本作内で許してくれる存在、友人たちが許してくれるという確信は、ただの都合の良い妄想の産物なのかもしれない。どのように告白したのか、どのような反応があったのか、結末は想像にゆだねられているが、願わくば、彼らには時間をかけて関係を再構築していってほしい。

重いテーマは重いままで

ここまで激重文章を書き殴っているが、この複雑な心境こそ、本作の布教にあたり障壁になっている。安易にメインストリーム化して軽く遊ばれてほしくない気持ちがある。しかしこの重さこそが、本作の魅力だ。

鬱・自殺という注意書きで、色物扱いをされているように感じる本作。確かに描写はあるものの、そういった内容は、そもそも本作のメインテーマではないと、個人的には解釈している。

鬱・自殺を恐怖コンテンツとして扱うホラーは多くある。しかしそれらは、深堀りや注釈なく、安易にコンテンツ化して良い代物ではないと私は考える。

重いテーマを、安易に恐怖の対象にしない、笑いものしない、薄っぺらい感動のスパイスにしない……「OMORI」はその丁寧な描写から、メインテーマでないとはいえ、最低限真摯に向き合う姿勢が感じられる。おかげで、変なところでモヤモヤせずにゲームを進められた。

しかし、だからこそ布教しづらい。重いのが嫌な人もいるし、重いのを軽く遊ばれるのも、私が嫌だ。

ホラーだという認識で、軽い気持ちでおっかなびっくりしながらプレイしていた人が、だんだん真顔になっていくのも、それはそれで乙なゲーム体験かもしれないが……

それではこの辺で、オヤスミ、オヤスミ、、

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