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湖底


訪問介護の仕事をしている。その村へは初めての訪問らしい。
村には大きな湖があり、訪問先はその湖底だということはわかっていた。ただ、初めてのことなので、ちょっと躊躇している。

わたしは小さなこどもを抱えていた。男の子。その子と一緒に湖底へと帰ることになっている。
むむ、、、ぼーっと突っ立っていても仕方がないので、意を決して中へと進んだ。彼をしっかりと抱きかかえている。大丈夫、大丈夫、と言いながら。とは言え、男の子はちっとも怖がってはいない。
湖はどんどん深くなり、とうとう水面がわたしの鼻のところまで来た。
よし、行くか。わたしは、つっと、つま先で水底を蹴り、思い切って中へ潜って行った。

息を止めて進む。中は恐ろしいくらいに透明度が高く、まるで水の中ではないように感じる。男の子は大丈夫だろうか。両腕に力を込める。そのとき、ふと、頭のなかに誰かの声が聞こえた。

水の中へ入ってもどうってことはありません。湖底に住んでいるやどかりたちの出す無数の気泡にはわたしたちに必要な酸素の分子が目に見えない形で湖内に浮遊しています。それらはわたしたちの皮膚から直接入って行き、肺で呼吸しなくとも、酸素交換が出来るのです。なので、大丈夫です。なんら心配は要りません。

そうだった。と、思い出す。息を止めたからって苦しくなんかならないのだ。力をふっと緩めると、自分が口や鼻で息をせずとも普通でいられることに気付いた。あ、男の子は?見ると彼もまた全然変わりなくわたしにつかまっている。そう、この子にとってはいつものことなのだった。

彼を抱きながらしばらく湖底に向かって進む。湖底に着いたら、あのヤドカリたちに会えるのだろうか。そんなことを思っていた。
が、湖底というよりも、辿り着いた場所は、広い草原だった。小道の向こうには小さな家々もある。どこへ行けば良いのか、よくわからないまま男の子と一緒に歩いた。もう、湖底だという感覚はなくなっていた。普通の村だ。

しばらく行くと、そこに大きな湖があった。訪問先はこの先にある。
が・・・え?ちょっと待って、さっきわたしたちは湖底に入ってきたのではなかったか?混乱しながら、また男の子を抱えて湖の中を進む。だんだん深くなっていき、目の前には青い空に浮かぶ白い雲だけが見える。
ちょっと待って。これは湖の中にある湖なのか?それともわたしが見ているこの空は実は同じ空なのか?

このまま進むべきなのかどうか、どうしたものかと、ひとり迷っている。




11/02/2013

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