見出し画像

「幸せ」の正体がわかった

文字にしてみて大胆なことを書こうとしている感じがしてビビっている。
なんといっても「幸せ」がわかった、と書いているのだ。こわー
(一応以下に上げるような感じの本とか、自己啓発本やエッセイも含めて幸せと関連しそうな本を100冊ほど読んで・・)

でも、続きを読んでいただければ「そりゃそうだろう」と思われること請け合い。何となく思っていたことが、そのまま、なんとなくそのまま、、という感じである。

幸せとは、「人が"いい"と感じる状態をふわっと名付けたもの」。

ああ、ええ、、まあ、うん。そうかもね。的な反応になるだろうか・・(おそるおそる・・・)

ポジティブ心理学のマーティン・セリグマン博士著の「世界でひとつだけの幸せ―ポジティブ心理学が教えてくれる満ち足りた人生」にはこう書いてあった。

ポジティブな感情には過去に対するもの、現在に対するもの、未来に対するものがある。未来に対するものには、楽観、希望、信念、信頼があり、現在に対するものには、喜び、絶頂感、落ち着き、熱意、歓喜、快楽、そして何よりも大切なフロー(完全な充足感の状態)がある。そして過去に対するポジティブな感情には、充足感、安堵感、達成感、誇り、平穏がある。

世界でひとつだけの幸せ―ポジティブ心理学が教えてくれる満ち足りた人生

この本の本旨からははずれるが、わたくしにはここが大事だった。
セリグマン博士は名前をつけてくれた。
楽観も、希望も、熱意も、達成感も幸せの一種である。
われわれはこれらをまとめて、"いい感じ"として体や脳が反応し、それに名前をつけたのが「幸せ」。

小さな子どもが難しい本を読んでいるのを見て「この子は将来大物になるぞ!」と期待したとき、希望という幸せを得られる。
ねこ動画を見ているときや美味しいものを食べているとき、快楽の幸せを得られる。
過去の成功体験を思い出すとき、達成感の幸せを得られる。

という話でいくと幸せとは多種多様な種類のものをふわっとくくったものである。
これら幸せを構成する多種多様なものに、たとえばこれらのようなパラメータをつけるとするとより分かろうか。
・その幸せのボリューム
・その幸せの持続時間
・幸せを得るためのコスト(お金・労力・時間)
・幸せを得たあとのコスト(お金・労力)
・幸せを得られる確率
・現社会の評価(良し悪し)
・自分の評価(良し悪し)

具体例)
宝くじに当たる(喜び):幸せのボリュームが大きい、持続時間はある程度で低減する。コストはケースバイケース。確率が著しく低い。
ねこ動画を見る(快楽):幸せのボリュームはほどほど。持続時間は短い。コストは手軽でほぼかからないが、時間を費やす。
タバコを吸う(快楽):幸せのボリュームはほどほど。持続時間は短い。コストは数百円。タバコを避ける社会からの評価は低い。将来の健康リスクもありそう。
天気の良い日の散歩(快楽):幸せのボリュームはそれほど大きくない。コストはほぼかからない・費やす時間が幸せの持続時間。
旅行(喜び・充足感):幸せのボリュームは大きい。コストも大きめ。現在の幸せとともに、過去の思い出にもなる。
他人を陥れる(歓喜):
社会的評価の低下、自分の評価が後ろめたい気持ちで毀損される可能性がある。

評価を入れたのは、評価が良いことを幸せに感じることはあるが、幸せの種類によっては一般的には悪いとされるものもある。悪い幸せ、と表現ができるものも成立するかも、と思う。社会的には悪い、将来の自分から見ても悪い。だが今の自分は幸せ、といったものを想定している。


「あなたは幸せですか?」と聞かれたとき、気持ちのいい天気の公園にいても、絶品ラザニアを食べている最中でも、過去と今と未来をばーーっとサーチして、自分が悲観的に思っている過去経緯や、今やりかかっている気の重い仕事や、将来の経済的不安や脅かされる安全を思い出し点数が低くなることもあるだろう。「あなたは幸せですか」は過去と今と未来の幸せを並べてみて合計何点?と聞いているような感じ。幸せという言葉でふわっとくくっているので。

ふわっとくくっているので全体的に幸せ度合いを測ろうとする。

でも感情はいちどきに一つしか感じることはできないらしい。
ねこ動画を見ているときは幸せで、気持ちの良い風に吹かれているときは幸せ、である。
ねこがティッシュ箱に滑り込んでいるところを見てニヤついているのと同時に将来の家計の不安を感じることはできない。感情は同時に2つ感じられない。交互は可能。どこかで読んだ。(ソースなし!)


それにこれらのパラーメータを見れば、幸せのうちのどれを得ようとしてるかが行動を選択する指針になる。

わたくし、YouTubeやテレビをみて楽しんだのに時間を無駄にしたと後悔することがあり。。。でも、それは間違っている。そもそもこの幸せは持続時間が短い種類の幸せであり、そのための時間できちんと目的の幸せを得ているのである。「あー楽しかった(幸せだった)」が正しい感想のはず。YouTubeを見た時間を残念がるのではなく、幸せだったのだから気持ちよく次の行動に移ったほうがよさそうだ。
それでも後悔が残る。ならば、次の来るべきタイミングで選択を慎重に行う方向でどうだろう。YouTubeを選択した時点で持続時間の短い幸せの方を選えらんでいたことになるのである。それが嫌であれば、自己実現というコストは掛かるが持続時間の長い幸せ(があるかどうかは検証していないが)を選択し勉強や努力に時間を費やす選択をすることになろう。
あー、いや面倒だな。とおもったならば違う種類の幸せを求める。。


再度、幸せはいろんな種類のものをふわっとまとめたものを指している。
ふわっとしたものは具体的な姿を持たない。
だからわれわれは、幸せになるために とか、幸せですか?とか、具体的ではないふわっとしたものを投げかけられると、われわれ自身のふわっとしたもののどこかしらに必ずある不足している幸せの種類を見つけ出して不安になってしまう。
「幸せになりたくありませんか?」と聞かれたら経済的なこととか、愛情とか、仕事とか、安全とか、健康とか思い浮かべて、凹んでいるところにフォーカスしてしまう。「幸せですか?」と聞かれても同様。
もしかしたら、これらの質問は幸せではない状態にする質問なのかもしれない。全部が完ぺきな人は少数だし、他者と比較してしまえば、上には上がいる。地位財にフォーカスしてしまうのは得策ではない。

幸せとは、「人が"いい"と感じる状態をふわっと名付けたもの」。

凹んだところにフォーカスすると幸せでなくなってしまうならば、出っ張っている方、凸な方にフォーカスすればよいということになる。

じゃあ、わたくしは幸せである。BBCの子ども乱入動画を見ているところだからだ。


見ていただきありがとうございます!