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わりと日刊だらく[No.112]〜無念を愛そう〜

今日の散文


無念を愛そう

こんなツイートを見た。


僕はわりと、死ぬ時に後悔がないと思えるように生きようとしてきた。

でも、その考えが間違いだったことに気付いた。


祈っている時、僕はいつも死に際を想像する。

車に轢かれて、どうしようもないほどつよい衝撃を受けて、周りの人が騒いでいる声が聞こえる。

全身のどこにも力が入らない。コンクリートの感触よりも先に、地面に広がる生暖かい血の感触に気づく。

空を見上げながら「あぁ、俺は死ぬのか」と思う。

そして、今この瞬間の自分がそこに入り込む。

すると強い後悔が込み上げてくる。

死にたくない、もっとウチの猫と一緒に時間を過ごしたい、もっと色んなことが知りたい、もっと人と話したい、もっとどこか遠く先の方に行きたい。

でも、それはもう無理なんだなってあきらめて、ひたすら猫や好きな人たちに感謝を思い、とりあえずここまでこれたからマシな方かもな、と思いながら死んでいく。


でもそれは、後悔があるからこそ、それを受け入れようとするからこそ感謝に向かうわけであって、後悔をしないというのはどんなことにも価値を感じないのと同じなのではないかと思う。

それでも、後悔して悲しい気分になるのが嫌だった。だから無意識にそれを拒否していた。

一年以上前に、アカギの生前葬編を見て「これでいいんだよな」「こういう死に方は美しいな」って思ったのだが、それを忘れてしまっていた。


「悲しい」ってことはそれを受け入れようとするということで、すごく良い感情だとあらためて思う。


ついさいきんの話で言うと「夜を駆ける」のような悲しさが好きだ。

がんばって好きな人を支えようとしたけど、些細な幸せを見つけていけるようにがんばったけど、相手の悲しみに引きずられて自分も死に向かってしまう。

その悲しみが、どうしようもなければどうしようもないほどにカタルシスが身体の内側からあふれだしてくる。

そんな悲しい気分になるのが、僕は好きだ。

ちょうどそんなことを思っていたら「後悔はいいゾ」ってツイートを発見し、アカギの生前葬編を思い出し、僕は「死に際に死ぬほど後悔できるようにもっと楽しいことを追求していこう」と思ったのでした。

悲しいと感じられることは良いことなんだ。


(興味ある人は、天読んでね)


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