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わりと日刊だらく[No.78]〜対談っぽい対談をした話〜

今日の散文


対談っぽい対談をした話


(この記事は、対談相手から許可を取って掲載しています)

今日は久しぶりにスラム民と対談をした。合計で3時間40分話した。

結論を言うと、すごく対談っぽい対談で、僕個人としては得るものがかなりあった。

いつもの対談は僕が相手の苦悩を聞いて問いを投げて相手から出てくる話を聞きまた問いを投げるという感じで、相手のこんがらがった苦悩をほどいていく作業をして、なんとなくそれっぽい結論が出て相手がそれなりに納得したりちょっとスッキリして「よかったね〜」となって終わるみたいな感じが多い。これは楽しいし得るものも多いので、これはこれで良い。

だが、今回はそういう感じではなく、それなりに踏み込んで相手の性質を確認していく感じだった。彼からどう見えたかはわからないけど、僕からすると相手がちゃんと鏡として機能したと思っている。


具体的に言うと、僕と彼の行動の根源的なエネルギーや行動原理、またその方法、がわかった。それらがいい具合に対比され、お互いに持ってないものがわかったと思っている。

めちゃくちゃ雑に言えば、僕はわりと起こることのすべてを受け入れようとするスタンスをとっていて、彼は自分に合ったものを社会の中に見出そうとしていた(なんかちょっと違う気がするが、一筆書きの散文なので許してもらおう)。どちらも、何かから逃げて、何かを得ようとするという目的があったように思う。よくわからないけどこういうスタンスの本質ってこういうものなのだろうか。

僕は不快から逃げていて、彼は恐怖から逃げていた。僕は嫌だという気持ちそのものをなくす方向で、彼は恐怖をつぶしていく方向だったように思う。

僕は丁寧にゆっくりと楽しみながらやっていくという感じで、ストレスを減らしてじっくり加速を待つというスタンス。相手は、まったりとしつつもぶん回すところではぶん回して加速してその速度を上げていくスタイル。

ミクロをやるかマクロをやるかみたいな違いがあり、僕はミクロで相手はマクロ。

僕は不快に敏感で臆病なので丁寧に石橋を叩いて進む感じなのに対して、相手は「恐怖から逃げるため」「加速や変化が楽しいから」とにかくぶん回して量の中から全体を見出していくというような感じだった。


僕が思うにこれらはどちらも一長一短であり、お互いに足りない部分であったように思う。

また、このような不足はそんなに悪いことではないと思う。その人にはそのスタンスでやらなければならなくなった理由があり、そのスタンスはその人の性質に根ざすものであり、そのスタンスやり続けていくことによって得ている何かがある。

今回はそれが露わになった。


お互いの行動原理が違うので、割と真逆な結果となった。鏡としてうまく機能したなという感想はここから来ている。

相手が何を得たかはわからないが、僕はコマンド「ひたすらぶんまわす」を手に入れた。

これが具体的に何なのかを言うと、読書だ。

僕はトロトロと精読するのに対して、彼はいつだか読み方を変えたらしく、当時の倍速くらいで読むようになったとのこと。僕は読みながら構造を見ようとして時間をかけるけど、彼は精度をあまり気にせずひたすらぶん回して全体を素早く見るような読み方をしている。

この人のやり方は、前から頭の片隅にはあったし、いつかやるだろうなとは思っていたけど、完全に忘れていた。今回の対談によってそれを思い出すことができたし、成功例として存在してくれていることで「これはできることなんだな」という確信が深まった。

結果として情報の習得の速度と精度が高まっていくのは、後者であると思う。なので僕はそれをちゃんとパクっていくことにする。


彼も僕と同じように、わりと他人の悩みを聞いて解決するみたいなことをやってきたらしく、そういう苦悩らしい苦悩がないので、今回のようなわりと純粋にお互いの性質を確認し合うような対談になったのではないかと思っている。

今回、いつもと同じようなスタンスで対談をしていたので、最初は「僕の中の正解を相手に提示していく」をやっていた。

いつもならここで「それいいかも〜」みたいな感じで終わっていくのだが、今回は「でもわたしはこうこうこうで…」と話がどんどん続いていき、お互いの差異が明らかになっていった。

彼のことを「なるほど、そういうことか。なら、あなたはこれでいいんだね」と理解して受け入れていく過程が新鮮で面白かった。彼の行動原理や方法には、彼の性質からくる合理的な理由があり、実際それに則ってやり続けて成果を出していたので、それが間違いであると断定することは不可能だった。

というか、その方法を取るまでの過程などを、問いを投げていくことによっておぼろげながら理解していったので、すごく正しいなと思った。

どこかにはあるのかもしれないが、少なくとも僕が見た感じでは矛盾は見当たらなかった。悪い矛盾もないと思う。僕から見て非常に合理的な判断によって、ぶんまわしが確立されていたのだと理解した。

まだ彼の人生自体が発展途上であるというのは彼自身が自覚するところだと思うのだが、それでも彼の話を聞いてみると「自分の生活をやってきて色んなことを試してきた人間の合理性」を感じた。ただただ社会で浮遊している人間には得られない境地だ。

だからまだまだこの先の変化があるので、どんどんぶん回していつか壁にぶち当たった時にまた話を聞かせて欲しいなと思っている。

彼がぶん回しをやっていった先に何があるのかがとても気になる。

「他人の人生を知り、その後の物語を期待する」というのが希望だなと思った。

基本的に僕は苦悩目的で対談をするのだけど、こういった「のちの変化」を楽しみにするパターンもあるのだなということを再確認した。

僕は苦悩と絶望のその先にあるものを目指している人と交流がしたい。そういうことなのだろうなと自覚した。

停滞している人の苦悩はやわらかくておいしい。進み続けようとする人の苦悩(?)は食べ応えがあって満足感がある。

他人と話して得られる栄養にも種類があり、味わいが違うのだな。

(どんどん書きたいことが出てきてしまい長くなってしまった。栄養価の高い話をした後は、速攻で書きまくるのが良いのかもしれない。次回からもそうしてみようかなと思う)


今日の音楽

超越の祈り

ちゃんとやってます。

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