他人の堕落を受け入れること
最近、友人が堕落している。
環境や自身の未熟さなどの要因によるもので、それによって苦しみつづけている。その苦しみから逃れるために、とある堕落を選択している。
詳細は割愛するが、正直言ってかなりのクズである。しかし、友人である。
あまりにも何も選ばずに流され過ぎていて、私が口出しをしたくなってしまう。
しかし、そうやって私が口を出せば出すほどに、その何も選べなさを温存するだけになってしまう。実際、私やその人の友人から口出しされるのを、私の友人は喜んでしまっている。
このままでは、ただ他人にかまってもらえているのがうれしいだけで、選択も決断もしないというクセは治らない。
だから、私は私の友人の堕落を受け入れることにした。私は私の友人に対して、口出しをしないことにした。
友人だから堕落してほしくなくて失敗してほしくなくて苦しんでほしくなくて、正しいことを言って説得しようとするのをやめることにした。
失敗しつづけて苦しみつづければいい。
というか、少なくも自分には、自分を救うためにできることはそれしかなかった。失敗して苦しみつづけて「もうこんなのはイヤだ」そう思い何かを変えようとし始めるまでは、何も変わらない。
この世界に真に自分を救うことのできる他人など存在しない。金も、食べ物も、愛ですらも、何をもらっても救われることはない。
いまの人生のすべての責任を自身で引き受けるしかない。断念し、決断し、選択し、行動する。または、何もしない。
私は、自分が少しずつそうやって生きられるようになってきたことを、他人に対しても認めることができていなかった。
何が良きことなのかは、常に未来の自分が決めることだ。今の自分にはわからない。
だから、堕落していい。失敗していい。
私にできるのは、他人の人生を眺めていることだけだ。直接的に関わって変えようとしたところで、本人にその気がなければなんの意味もない。
選ぶのは常に自分である。
だから、私の友人の人生が、どんな結果になっても受け入れようと思う。
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