他人の堕落を受け入れること

最近、友人が堕落している。

環境や自身の未熟さなどの要因によるもので、それによって苦しみつづけている。その苦しみから逃れるために、とある堕落を選択している。



詳細は割愛するが、正直言ってかなりのクズである。しかし、友人である。

あまりにも何も選ばずに流され過ぎていて、私が口出しをしたくなってしまう。

しかし、そうやって私が口を出せば出すほどに、その何も選べなさを温存するだけになってしまう。実際、私やその人の友人から口出しされるのを、私の友人は喜んでしまっている。

このままでは、ただ他人にかまってもらえているのがうれしいだけで、選択も決断もしないというクセは治らない。



だから、私は私の友人の堕落を受け入れることにした。私は私の友人に対して、口出しをしないことにした。

友人だから堕落してほしくなくて失敗してほしくなくて苦しんでほしくなくて、正しいことを言って説得しようとするのをやめることにした。

失敗しつづけて苦しみつづければいい。

というか、少なくも自分には、自分を救うためにできることはそれしかなかった。失敗して苦しみつづけて「もうこんなのはイヤだ」そう思い何かを変えようとし始めるまでは、何も変わらない。

この世界に真に自分を救うことのできる他人など存在しない。金も、食べ物も、愛ですらも、何をもらっても救われることはない。

いまの人生のすべての責任を自身で引き受けるしかない。断念し、決断し、選択し、行動する。または、何もしない。



私は、自分が少しずつそうやって生きられるようになってきたことを、他人に対しても認めることができていなかった。

何が良きことなのかは、常に未来の自分が決めることだ。今の自分にはわからない。

だから、堕落していい。失敗していい。

私にできるのは、他人の人生を眺めていることだけだ。直接的に関わって変えようとしたところで、本人にその気がなければなんの意味もない。

選ぶのは常に自分である。

だから、私の友人の人生が、どんな結果になっても受け入れようと思う。


 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。

 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱ぜいじゃくであり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

坂口安吾 堕落論より

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