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だらく対談記録No.58〜自己幽閉〜

『ショーシャンクの夜に』のワンシーンを思い出す。

モーガンフリーマン演じる、刑務所で名の知れた調達屋のおっさんが、なんかよくわからんうちに仮釈放になり、社会復帰のために用意されたスーパーの仕事をすることになる。

彼は勤務中、店長だかオーナーだかにたずねる。

「トイレに行ってもいいですか?」

その店長だかオーナーは言う。

「そんなことでいちいち許可を取らなくていい。行きなさい」


元調達屋のおっさんはそこで自分が呪われていたことに気付く。

「オレは、この何十年間、刑務官に許可をもらわないとクソすらできなかったのだ…」

彼はそれを思考停止し守り続けてきていたのだ。



人は、自分で自分を幽閉し続ける。

それが当たり前のことだと思っているから、やり続ける。

「周りの人達もそうしているし、これは普通のことなんだ」そんなふうに思っているのかもしれない。

それがどんなに精神的苦痛を伴うものだったとしても、いずれは痛みを感じるのがめんどくさくなり、何も感じないようになる。

いや、実は、その思いを抑圧していることに気づかないだけだったりするのだが。

いつか、それを他人に押し付ける日もやってくる。

「それをやらないのは社会人としておかしいよね」

社会に呪われ、自己を抑圧し、他人を呪い、自分に呪いをかける。そうやって自己幽閉する個体が完成する。



自分の中の問題を放置して、外部から与えられた正しさを追っていく。そういう作法が身についてしまう。

自分の気持ちを抑圧していることにも気がつかない。言葉にしていないだけで、それによって自分はダメージを受け続けているのに。


ただでさえ、苦痛に感じる色んな呪いが解けていない。

家族の呪い、恋愛の呪い、容姿、能力、その他もろもろ。

自分がどんな人間なのかよくわかっていない。

だけど、仕事はしなくてはならない。

だから、そこに社会の呪いを上乗せしていく。

そして、そのまますべての問題を放置し、自分の気持ちを抑圧し続ける。

社会を回しているけど、自分はどこにも行けない。


自分のことをわかっている人からすれば「常に大量のアプリを同時に使っていたら、そりゃあ電池も食うよね」ってわかる。

でも、自分の気持ちを抑圧して、何が正しいか考えてそれを言葉にすることを放棄してきた人間には、何が自分を疲れさせているのか全くわからない。

自分は何をすればいいのかわからない。どこに行けばいいのかわからない。

「私はなんでこんなに疲れてしまうの?他の人はできているのになんで私にはできないの?」

「なんで自分で自分のことを決められないの?いつも他人が軸になってしまうの?」

「私はどこに進んで行けばいいの?何をすれば幸せになれるの?」



人は、たくさんの問題を放置したまま、たくさんのルールを守ろうとして、精神的に死んでいく。

でも、自分の感情を無視して、それを言葉にして考えるのを放棄して生きてきたから、何も自分で決めることができない。


性対象となる他人にすがることしかできなくなってしまう。

結婚以外のゴールが見えなくなってしまう。

ストレス発散のための行為だけが残り、趣味と呼べるものがなくなっていく。

自分が、社会に許される範囲で、すべてを決定していることにすら気付かない。自分の気持ちは常に置き去りにされ、呪いとして蓄積されていく。

何も納得できないまま、社会を回して、自分は消えていく。


終わりに

日が変わってから朝まで、6時間くらい対談していた。

夕方に起きてすぐにこの記事を書くことを思いついたので書いてみた。寝起きで記事のアイデアを思いつくのはめずらしいのでおもしろかった。

対談記録として残すことにしたが、その人の細かいプロフィールは省いた。そこにはあまり価値がないと判断したからだ。


その人は、自分がどこを目指すべきかわからなかった。何をすれば今の状況が良くなるのかわからなかった。

でも、色んなルールに縛られていて、それを守ることは忘れていなかった。

社会的であればあるほど、自分の気持ちが置き去りにされてしまう可能性があるのだなと感じた。


日々の暮らしに疲れて、ぐちゃぐちゃに絡まった自分の内面を解きほぐしていくことすらできなくなっていた。

社会に呪われ、労働に縛られ、疲弊し、思考する習慣も体力も無くなっていた。

趣味がない人、労働以外の時間はストレス発散のためにあると思っている気がする。労働から逃れている時間だと思っている気がする。

自分の時間ではなく、社会から逃れている時間。だから、休日が「発散したい」「逃げたい」に埋め尽くされて「やりたい」がなくなっていってしまうのかもしれない。


群れの大切さも思い出した。

今の僕には、常に接している群れがあり、その人たちの言っていること、儀礼、その蓄積がある。

そのベースがあるだけで、自分がどうすればいいのか判断する材料が増える。

また、それなりに自分の話を聞いてもらえている感が得られる。孤独感がなくなる。


その人は孤独だった。友達がいないわけではない。だが、独身友達が結婚したりして、どんどん孤独になっていっていた。

新たな関係を作っても、自分の期待は叶えられなかった。だからまた絶望する。わたしはいつまで一人でいればいいんだろう。

社会のように絶対的に感じられる、でも優しくて自分を受け入れてくれる、そんな人を求めていた。

群れの受け皿として、自分ができることは、男性からの性的な需要に応えることくらいしかできなくなっているのだと思う。それなら簡単にできるし、ワンチャン結婚もあるかもしれない。

女性という立場から見ると、性愛的な関係というのは、結婚すれば社会的な承認が得られる。そろそろ結婚しないと周りの目が…なんて人は多い。

男性はとにかくヤリタイヤリタイなので、女性の需要は異様に高い。だから、自分が求められているという前提で、相手を選ぶ場に参加することができる。

自分を自立させるために何かを考える必要はなく、自分が心地良いか(好きかどうか)みたいなことを追っていけばいい。


こういう性的なことに流れずに、ただ他人を理解し、自分を理解してもらうための群れがあれば、そこが自分の居場所だと感じられる群れがあれば、社会の基準とは別の何かを見出していける可能性がある。

今、僕がそんな群れに参加できていることを幸運に思った。


社会の檻から、自分の檻から出るためにはどうしたら良いか。

それは『ショーシャンクの夜に』の主人公アンディのように、自分の世界を持ち、仲間を見つけて、外に出てからの予定を立て、毎日コツコツと壁を掘り、必要なものや情報を集め、下水管のクソの中を這いずりまわり、大雨のふる誰もいない孤独な川で叫ぶことだ。

と僕は思う。


毎日、呪いに向き合おう。それが自分の世界の第一歩だ。

次に、それを話せる他人を見つけよう。余計なことを言わず、ただ聞いてくれるだけの人でいい。「それってなんで?」と質問をしてくれるだけの人でいい。自分で出来なかった思考を、他人の頭を使ってしていくのだ。

きっと少しずつ呪いが解けていく。

そしたら、チェスのコマを、石を掘って作ろう。自分が幸せに生きるために必要なパーツを探していこう。

それを盤面に並べて、完成させていこう。自分の人生の地図だ。

それはきっと死ぬまで未完成のままで、何度も変えていくことになると思うけど、それがあれば自分が目指すものを忘れずに済む。

そして、所長や刑務官の信用を得てポジションを獲得したあと、コツコツと壁を掘って、その穴をポスターで見えないようにし、何年も何年も脱獄に向けて穴を掘り続けるのだ。

いつしか、自分が通れるくらいの穴が完成し、脱獄することができる。大きな呪いから、社会の呪いからその外に出る時が来る。

でも、それは簡単じゃない。下水管の中をクソまみれになりながら、何度も何度も吐きながらクソの匂いに苦しみながら進むことになる。

でも、檻の中でただ死ぬのを待つよりはずっとマシだ。納得して苦しみを受け入れていける。今まで自分の力でやってきた蓄積がある。自分がやりたいことがある、人生の地図がある、話を聞いてくれる人がいる、仲間もいるかもしれない。だから苦しくてもその先にまたいいことがあると信じられるから進んでいける。

そうやって、クソまみれになりながら、大雨の中、川の中に産み落とされる。社会の呪いから解放された生命として初めて存在することになる。

そして、誰もいない孤独な世界で、大雨を感じながら、両手を振り上げて自己の解放を祝うのだ。

孤独な世界でリバティを味わうのだ。

まだまだフリーダムにはほど遠い。自分から選んだ自由ではない。

自分の外側にある殻を破ることで得られる自由、それがリバティだ。抑圧された思いが言葉になり、その呪いを解いたにすぎない。自分で選んだものではない。与えられた不自由を解きほぐしたに過ぎない。所詮、偽りの自由だ。

しかし、それが大きな一歩となるはずだ。

きっとそこまで辿り着けば、フリーダムになっていくことができる。苦痛ですら受け入れて、それが自分の望んだものなのだと思うことができる。

何かを失うことも、死ぬこともぜんぶ自分のものにすることができる。


まずは、小さな呪いを見つけることから。僕はそこから始まった。

呪いから解放されるために、苦痛すらも選んでいけるようになるために、何かを始めよう。何かをやり続けよう。

きっと、その先に自分の人生は待っている。

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