世界の底が抜ける

世界の底が抜ける。いや、どちらかといえば社会の底なのかもしれない。それはスカッとするような快感だったりもするし、血みどろの戦争のあとのどうしようもない絶望のような不快で不安なものだったりもする。そのどちらもが好きだ。その絶望は、できれば味わいたくないと思いつつ、しかしそこに眠る一欠片の砂金を見つけたいと思ってしまう。戦争のあとにはどれだけ絶望的であろうとも必ず何かしら残された価値のある何かがあるものがどこかのガレキの中に埋まっているはずだ。もちろんこれは比喩だ。どうしようもない絶望の中にこそ自分が潜んでいる。それを発見したいと思ってしまう。何もわからずにずっと生きてきたから、何かを理解するための不快ならば価値を感じる。金を出してでも買いたい。困難を買う。困難を買うしかない。困難を買わずに適応は起こらない。適応しなければ成長はない。どれだけ植物が太く高く伸びていこうとも、それが食糧的な価値、観光的な価値、宗教的な価値、研究的価値、そういうものを産まない限り人間にとって価値はない。ただ高く積んだ石の山に価値はない。世界の底が抜けたあと、適応が起こる。世界の底を修復すべく思考が動き出す。そうしないと不安で生きていけないからだ。安心するために俺の中にある世界の底を修復しなければならない。ツギハギだらけの素人仕事によって俺の世界は修復される。そのあと、少しずつ少しずつ、その修復された世界での振る舞いの中で、新たな生活を見つける。新たな原理原則、新たな習慣が発足する。そしてまた世界の底のツギハギをよりよいものに変え、原理原則と習慣を変えていく。そういった経験が好きだ。ひどく傷ついてしまうかもしれないけれど。そうやってそのあとの生活すべてが変わってしまうのが好きだ。そうやってようやく俺は自分が何かを理解できたような気になれる。そしてまたいつか同じような経験をして、自分がいかに無知だったのかを知る。その繰り返しだ。その繰り返しが好きだ。それしかないし、そうしたい。世界の底が壊れないように生きたら、弱いまま生きていくことになり、けっきょく壊れてしまった。世界の底は、定期的に破壊するべきだ。自分の無知さ、弱さを知れば、自然と変わるものがある。世界の底を抜けさせよう。ただ自分にとって都合が良くて心地良い世界だと思っていたものをグチャグチャに破壊しよう。ぬるい幻想の中に楽園はなかったんだ。

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