所属ということ

「私はたぶん、何かに対して根本のところでは属せない」と思い浮かんで、
一瞬だけ泣きそうな顔になった気がした。でもそれもほんの一瞬だけ。

所属組織に求めるものがゲゼルシャフト的なんだろうな。
ただ、ゲマインシャフト的側面を求めていないとは言えないというか、
むしろ愛せる帰属対象であれば機能集団でなくても望ましいと思う。
それができないのは何故、の部分では私は根本から諦めている。

所属と愛というものは密接に関わっている、と感じている。
私も何かを愛さないわけではない、そこまで薄情ではない。
愛することのできるかもしれない対象への期待値が高すぎるだけだ。
木石の方が単純に愛することができる、けれども所属することはできない。
そういったものへできることは所有だけだ。

私が愛していたと確信をもって言える共同体もあったが、
アレも結局は根本がゲゼルシャフト的だったから、ということなのだろう。

愛していたものに縛られ続ける必要もないし、
況や、愛せないものに縛られる必要はないんだと思う。

愛していた組織所属以外に関しても、
何か所属してみて迎合してみようと努力しないわけではなかった。
しかし自分が居るとぎこちなくなる、あるいは汚点を見出す。
そういうことは誰しもあるかもしれない。

他者はそういう部分を改善したり我慢したりするのかもしれない。
それはそれで、そうするだけの利益を見出しているからだと想像している。
ただ、私は、自分が居てぎこちなくなるよりは自分が居ない方が良かろう、
組織の汚点を正そうとすることは不和を生むが無視するのもし難い、
そうして段々と距離をあけて遠ざかっていくのがお決まりとなっていく。

こういう自分の行動パターンや心情を踏まえて、
たぶん一つ所に長く留まるということはあまりできないと覚悟を持つべき、
などと自己防衛の防壁を塗り固めてもいる感じがするが、
何かに対して長く添い遂げられる者の方が少ないことも心に留めたい。
精神的側面にしろ、機能的側面にしろ、全ては変わっていくから。

つらつらと書き散らしを束ねて形を整えるなど。

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