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生きるとか死ぬとか分からない

いまは午前3時20分。虚無と劣等感と訳のない怒りがぐしゃぐしゃに混ざって眠れない。だから文章にしてみて気持ちを整理してみようと思う。

名前は伏せるが、私に「音楽での救済」を教えてくれたバンドのギターボーカルが亡くなった。まだ20代前半だった。
訃報を聞いたときの景色や心情を未だに覚えている。学校での昼休みで一人だけ気が狂ったように手を震わせて、目に涙を滲ませた。このままじゃいけないと思い、教室から離れるとドバっと涙が溢れ出たのを覚えている。嗚咽が止まらないまま号泣していたのを先生に見られ、半強制的に早退させられた。
そのときから「死」が急に身近に感じて怖くなった。「本当に人は死ぬんだなぁ」と、当たり前のことを改めて思い知らされた感覚だった。簡単に人に「死にたい」と言えなくなった。人が「死にたい」と言っていると、前より悲しさが増すようになってしまった。
私は常に「死にたい」と感じている。頭の内側にへばりついて離れないのだ。だからなのか、類は友を呼ぶのか、私の周りの人たちは希死念慮を持っている人が多い。優しい人、面白い人、頭がいい人、可愛い人、かっこいい人。有難いことにたくさんの人が私と関わってくれているが、それぞれの口から「死にたい」を聞いたことがある。そんなの日常茶飯事だったのに、ただ笑って受け流すことができたのに。最近はとても悲しくなってしまう。
これは客観的に見たら良いことなのかもしれない。でもあまりにも無責任すぎないか?人の「死にたい」はとても苦しいのに、私は常々「死にたい」と思いながら生活している。だったら他人の「死にたい」も受け入れるべきではないのだろうか。
気持ちはとっても分かる。私だってずっと死にたい。1日に何回もなんで生きてるんだろうって考える。でも最近、他人の「死にたい」を受け入れることが難しくなってきた。大きな声で「やだ!死んで欲しくない!生きて幸せになって欲しい!」と叫びたくなる。今すぐにその人の元へ走って抱きしめたくなる。私にはそんな行動力もないのだが。
そんなことをバイト先でぐるぐると考えていたら、事務所から出た瞬間に涙が出てきた。頓服がその場にない状態で、息が荒くなった。やっぱり大切な人たちには死んで欲しくない。これは断言できる。でも「じゃあ責任をとれるの?」と聞かれると黙ってしまう。ああ、私はなんてわがままで無責任なんだろう。
もう生きるとか死ぬとか分からないよね。みんなで誰にも邪魔されないところで好きなことをできればいいのにね。「生きたい」も「死にたい」も考えずに、ただただ楽しく暮らしたいよね。
でもこの世界で生きている以上そんな訳にはいかないんだ。明日もあさっても予定は入っていて、その為にごはんを食べてお風呂に入って寝なければならない。

いまは午前3時52分。まだまだ寝れる気がしないなぁ。
最近考えてることでした。拙い文章だけど、読んでくれてありがとう。

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