2024/5/5 敵か味方か悲劇のヒロイン

人に触発されて、文章を書いている。
いろいろ新たなコンテンツに挑戦する人間に出会って、少し明るく見えた。もちろん明るい裏には影があるのだろうが、それが見えないくらい明るく楽しくやっているようだった。
新しい物事を始めることはきっと恐怖の違いない。それを物怖じせずやれるなんて素晴らしいなと思った。
というわけで今日は朝から日記を書くことにした。

負の感情が私を襲うとき、文字に頼ることにしている。
昨日もそうやって漠然と生命を生き永らえさせていたのだが、活字の中から一つの文章に目が行った。「悲劇のヒロインを演じる事で精神的に安定しているが、それは生物の快楽に向かって生きる姿に反して矛盾している。だから辛い」と。
今まさに私はこの状況であった。これまでの趣味や楽しいを否定して「この状況どうしようもない私って悲劇的」と納得して生きていた。悲観的に全て考える事で安心と安定をしている。もちろん変わりたいという意志はあるが行動が伴っていない。何もしようとしていないのだ。

できない理由はそこいらに沢山転がっていた。それを拾い上げて人に見せる事で、じゃあしょうがないかと言ってくれる人を見つけて欲しがっている。でもそれは全員が思いつくような苦悩で、チラとは見るかもしれないが普通は拾い上げずとも素通りして生きている。もちろんそうやって転がった理由を突きつけてくる人を、苦虫を噛み潰したような目で見つつ何だこいつと思うわけである。じゃあしょうがないと言われることなどもちろん無い。

書いていてモロ自分を刺している気分にはなり、ため息をつきたいほどではあるが実際はそうなのだからどうしようもない。

自分の中の悲劇のヒロイン性をどうすれば緩和できるか、周りの人はどう対処していくのだろうとうまく付き合う方法を考える他無い。抹消ではなく緩和なのは、抹消を目的としたら「やっぱり無理なんだ」とまた自分を悲観し、その意志が強化されてしまうからである。そして周りの人に聞くというのは、一人で考えれば考えるほど深みにハマるからである。これは知識ではなく今の経験だ。実際そうだった。

それで今は悩みの小石拾いを一時中断する為に文章を書くのを癖つけよう、人と話すことを癖つけようとしている。自分を痛めつける行為を少なめにするというのは私的になかなか難しいことではあるが、何もしないよりマシだ。

さて、今日は休日だ。何かやれることは他に無いかなと考えつつ、一旦筆を置くことにする。スマホだけど。

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