2024/3/25

私は悩みを作るのが趣味である。一つの悩みを解決すると、次の悩みを脳で捉えて重大なことと認識してをループする。すぐに必要でない提出期限や、今後の生活の行く末、果ては人生の意味等考えても考えても特に正解という物が導き出せない事に夢中となり自分の術中にハマる。

喉は締り、胃は縮小し、身体は強張って身動きを制限される。どうにかなんないのかよこの状況は、と明日の自分に聞いてみると「そんな事考えてもわかんねえものはわかんねえじゃん!建設的に考え給えよ」と上から目線で指図をしてくる。自分ながら辛辣なやつである。しかし的を得ているのでぐぬぬと歯ぎしりをする事しかできない。真実こそ痛みを伴うでっかい槍だ。なんと長年付き添ってくれていた私すらそれを振りかざす敵であるとは。こんなときこそ共感をしてくれよと懇願しようが鋭く重いひと文章で脳を揺さぶってくる。黙らせるには物を書くか、好きなことを実行するか、今日を置き去りにして眠るくらいの対処がない。

悩むが考えるに移るまで暫く掛かる。悩む間は「今の自分は駄目だ。だからこのあとは駄目しか無いし今後の行動はすべて終わりだ」と、まるで自分が悲劇のヒロインを演じたようになる。

バカめ!その考えは一般的すぎるし誰しもそれに陥る。お前は特別不幸な訳でもない。行動に移した責任を誰かに擦りつけたいが誰にも責任はないので自分に押し付けているにすぎない。そもそも不条理を責任というものに変換して勝手に作って嘆いている。悲劇のヒロインではなくただの一般人だ!

でっかい槍がまた飛んでくる。真実に真実を重ねがけられどうしようもない。いや、もちろんわかっている。一般人であるということを頭では理解する。頭では。しかし納得できていない。これは特別な悩みなのだから不調なのだと。ギャップが体の不調を支配する。

誰か私に一般人以外のレッテルを貼ってくれ、この痛みに事情をくれと叫ぶ。今は有用な情報は無く、あからさまな恐怖を煽り、安心を売るインターネットの海に答えを求める。もちろん答えなど無い。そもそも知らん人間が能書きをたれているにすぎない物に信頼は置けない。それぞれの人生で導き出した答えだから閲覧数やリツイートやいいねが答えではないということをとうに知っている。わかっていながら情報を貪ることをやめられない。そんな自分にも向き合えてない状況に腹がたった。

腹がたったので音楽を聞くことにした。自分が好きな音楽を耳から脳へ身体へ巡らせておくことにした。心の調子に合わせる楽曲があることを経験している。あまりに上機嫌なときも何も感じない気分のときも、何度も何度も助けられてきている。一つのフレーズ、様々なテンポが心のテンシションに共鳴する。すると、悩んでいた物事に一致するような一つのひらめきを得る。元々あった悩みが考えへと変化する瞬間だ。

少しの時間で反芻して建設的な情報をようやく導き出す。ああ、毎回、毎回だ。遠い回り道をしている。そう考えてようやく出てきた気力と食欲を実感して、ため息に似た笑いを吹き出した。

この考えても仕方のない悩みを私はまた作り、苦しみは絶え間なくまた来るだろう。だが好きな物に触れた時には具体的な行動を描けるようになるだろう。

さあ、また悲観に暮れて好きな物に縋ろう。
タイミングは早々来ることはない。
鍋でカレーを煮込むときのようにじっくりコトコトと待ちながら、時が来るのを待とう。
きっと美味しいものになるはずだから。


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