2024/4/3

嘘を付く日が風のように吹き去っていった。気付けばいつも通りの天気と気温に包まれ、のうのうと生存している。過去にあった胸のわだかまりが確信に変わった日は、今日も喋ったことさえ忘れて明日を歩むのだろうと考えていた日であった。

人との喋り方を忘れている。

明確に5W1Hという基本が抜け落ち、劣化した磁気フィルムや何度もかけ直したレコード盤、もしくはレシピのひと工程を忘れた料理のように思考は飛び飛びになっていた。

いったいこの現象はいつ頃から始まっただろう。少し思い返すとしよう。

6月当初のあの日は大丈夫だった。いつも通り楽しく論理的な戯言を喋れていた。7月から12月、これまた少しの不思議はあれど私にとってはまともに喋ることが出来ていた。
となると問題の発生点は1月からである。
心理学やコミュニケーション術を趣味レベルで楽しんでいたはずが、変に真剣に突きつめはじめ、知識のドツボにハマってしまい、学ぼうがどうにもならないことにしてしまった私は、藁にも縋る勢いで占いや東洋のスピリチュアルを学びとっていた日から始まった気がする。とはいってもその知識たちに非はない。取り込んで処理のしきれなかった部分でバグをきたしている。

スピリチュアルを学ぶには論理の飛躍が大前提だ。

何も関わりのない物事と物事を繋ぎ合わせて「意味がある」と定義する。これはある一定の物事に対してはオモシロいアイデアを生み出すきっかけにはなる。しかしながら会話レベルで採用されると、何いってんだこいつ状態となってしまう。眼の前の人にとって「関わりのない物事」を「ある」と主張するので、少なくとも今までの交流関係では同じ目線で会話が不可能になるのである。

マズった、そう思った2月頃には命取り。末頃からは何が正しくって何が間違っているかが曖昧になった。
プッチンプリンを自分と評してみた時くらいから、何かがズレていると思い始めた。それとともに状況的に会話をする状況が少なくなり始めた。他者との会話である世間性フィルタ、それがほころび始めた。

論理的が何か、会話の落とし所、突発的想像の発散がそれとともに溢れ出した。脳という器官が審査を通さず、言葉を素通りしていく感覚を度々味わった。
何を口走っている?と認識しながら、わかってくれと思う自分が居る。なんという自分勝手な期待であろうか。ああ、誰か。

と、こう嘆いていても仕方がないので一旦思いついた3つの対策を出すことにする。

1.自分が「雑談会話が上手い」と感じる人を真似てみる。

2.それぞれ仲が良いヒトたちと会話しているときの癖を認識しておく。

3.ぽっと出てくる言葉の意味を再考して、本当に繋がりはあるかを考えて喋ることを念頭に置く。

この3つの指針、どれかひとつ、ちょっとだけでもできれば重畳ということにしておく。一瞬で変えられるほど人間は変化できないと認識している。
一度癖がついたら直しにくいから、少しだけやってできたのならば肯定し、できなかったことは一旦無視することにする。期間は一月くらいにしておこう。

さ、悩んで思考のループに裂かれる前に行動だ。


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