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野生の思考 第三章「変換の体系」

さて、三章は民俗学者として筆者がめっちゃヒートアップしてます。オーストラリアやポリネシアなど各地に存在する実例をいろいろ交えてトーテムについて語っていますが、私はそんなに興味がないのだよ。

大事なことは「違いがある」ということ。内容はどうでもよくて、どれだけ違うか、に着目すること。トーテミズムとヨーロッパ文明は違いがある。人はすぐ、なぜ違うか、どう違うか、その内容について議論したくなるが、それは大抵、自分の価値観に基づいて他者を分析しているだけの、ひどく偏った主観的な分類になってしまう。そうではなく、客観的に体系的に論理的に、その違いを扱うことが重要だと筆者は言っている。

そして、違いのあるところから共通している部分、似ている部分を見つけ出すこと。逆に、似たような部分から違いを見出すこと。「似てる」と「違う」が入れ替わることこそが、変換の体系ではないか。

ヨーロッパ人たちは今まで、トーテムってなんか動物を信仰してるよね、自分がトーテムとする動物を食べることは禁忌とするルールとかあるし、それで融即律とか野蛮な思考に繋がってるんだろうね、みたいに考えていた。また、何かトーテミズムの始祖みたいな部族があって、そこから各地に伝播したんじゃないの、みたいな考えを持っていた。しかしそれは間違いで、実際はもっともっと複雑なのだよ(筆者はニヤリと笑い数多の反例を示すと、口早に、矢継ぎ早に、解説を始める)。

とにかくいろんな例があって、とても複雑なんだけど、言いたいことは、「いろんなことが逆転するよ、入れ替わるよ、それが変換の体系だよ」ということです(?)

たとえば、男性が上位の存在で、女性は下位の存在である。これは色んな部族で見られる考え方だ。男性が上位で、聖なるもので、清浄なものであり、精を授けるものである。女性は下位で、不浄なもので、俗なもので、精を受けるものである。

そして、精を授けるのは恵みの雨であり、男性は雨期であり、雨期は悪い季節である。精を受けるのは乾期であり、豊穣の季節である。下位の存在である女性の方が価値の高い季節を象徴していることになる。これはある意味矛盾しているけれど、そうやって切り口によっては立場が逆転したりすることはよくある。

食物の禁忌についても、リスを食べてはいけない、ハツカネズミは食べてはいけない、ゾウは食べてはいけない、いろいろなパターンがあり、対象も場所によっては女だったり男だったり、成人だったり子供だったりする。それは食物アレルギー症状がタブーを犯した結果だと勘違いして、ルールを作った結果だったりする。でも全然関係ないことだってある。

食事と性行為は、古くから人間にとってほぼ同じカテゴリーに属するもので、「食べる」と「めとる」が全く同じ単語であらわされる、という例も多いらしい。まぁ、今でも「食べられた」とか言うし。現代人が男女関係にいろんな倫理規定を作っているのと同じノリで、昔の人は食事に関する倫理規定を作ったのだろう。

食物の禁忌を指定することで、そのものを特別扱いすることこそが重要である。オレたちはこれを食べない、トーテムを食べるのは食人と同じ罪深いことだ、と。そして、このルールが周囲の部族と真逆になっていることで、食べ物の住みわけがうまくできていたりする。

神話とか儀礼とかトーテミズムの考え方は、自然現象などの出来事をもとに組み立てられた構造なので、その構造・ルールだけ見ると部族によって真逆だから頭がおかしいと思うかもしれないけど、そんなの自然現象の解釈の違いでしかない。呪いと考えるか聖なるものと考えるか表裏一体であり、そういう体系の変換ってよくあることだよね、という話だと思う。たぶん。

書いてあることは難しいし、具体例もいっぱい示されているので、よく読めば面白いのかもしれないけど、そんなに重要じゃないと思う(酷い)。

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