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モーニングルーティンは儀礼じゃない

私は毎朝出かけるときに、忘れ物がないかの確認をしている。財布、腕時計、指輪、鍵、スマホ1、スマホ2の合計6つだ。個別に確認するとだいたい抜け漏れが発生するので、いつも数字を数えている。1、2、3、4、5、6と6個ちゃんと持っていれば大丈夫。数字を覚えるだけなら簡単だし抜け漏れなく確実に確認ができる。素晴らしい。

あともう一つ忘れてはいけないのは、妻への「行ってきます」の挨拶だ。都合上、これを7と呼ぶ。私は毎朝6まで数えたあと、「ななー!」と言って家の中の妻を探す。それで挨拶にぎゅーっとハグをしてから出かける。えらい。

たまに私が家に残って妻が外出するときがある。そんなとき、妻は「ななー!」と言って軽くタッチしてから出かけていく。妻に1~6は存在しない。7しかない。そんなの7ではない。なんのためのカウントなのだ。私は毎朝忘れ物をしないためにカウントしているのであって、それは記号的な儀礼ではないのだよ。

最近、自転車のカギやNintendo Switchなど、持っていくべきものを忘れることが増えてきた。これは毎朝のカウントに入っていないから忘れるんだ。カウントを6じゃなくて8に増やそう、と思ったら何故か妻に猛反対をされた。私は7じゃなきゃ嫌だという。討論の末、私のカウントは1、2、3、4、5、61、62、63とすることで落ち着いた。

このカウントは何なんだろう。私の中で、朝の持ち物確認はやっぱり8個ではなく6個プラスアルファ、といった認識になっている。おかげで、62と63はたまに忘れてしまうことがある。これでは本末転倒ではないか。

私にとっては忘れ物をしないための意味のあるカウントなのに、妻にとっては謎の儀式であり、それを共有する仲間でありたい、ということなのだろう。勝手に儀式を共有すると、連帯感がアップするようだ。

さて、それを見た娘がどういう行動をするかは明らかだろう。「はちー!」と言って見送りにやってくる娘ともハグをしてから出かけるのは、私にとっての儀礼である。

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