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社会学的想像力:社会学者の使命

さて、ついに本書の一番最後、第十章にやってきました。第九章がこの本の「サビ」の部分で、この第十章は後奏にすぎません。軽く流していきましょう。

第九章で、人々は理性を失って合理性に支配された陽気なロボットになってしまった、と筆者は嘆いていました。だから、まだ理性の残っている社会学者諸君は、今こそ立ち上がって人々の目を覚まさせるべく、議論をふっかけるべきだ!と煽っているのが本章です。

私たちは、論争的な理論と事実を意識的に提示して、積極的に論争を促す必要がある。広範で開かれており情報に基づく政治的討論が欠如しているため、人々は自分の世界に影響する現実にも自分自身の現実にも触れることができない。

P269

私的問題を公的問題へと翻訳し、公的問題を多様な諸個人にとっての人間的意味の観点へと翻訳し続けることは、──リベラルな教育者としての──社会科学者の政治的使命である。研究のなかで──そして教育者としては人生のなかでも──この種の社会学的想像力を発揮するのが、彼の使命である。

P264

みんな気づいていないんだ、忘れているんだ。自分の理性を。自分がやりたいと思っていたことを。自分の本当の気持ちを。それを思い起こさせてやるんだ。

今のお前の合理的な判断は、社会構造から押し付けられただけのまがい物の意志で、本当のお前の理性じゃないんだ。さあ目を覚ますんだ。きちんと自分の気持ちを自覚するんだ。好きなものを好きというんだ。人目を気にしてランキングを追いかけるのはやめるんだ。自分の好きなものを、自分の心からの気持ちで向き合って、しっかりと愛するんだ!

まさに、この記事のとおりです(有料ですが)

つまり、ぷろおごは社会学者だということですね。ちゃんとミルズの意志を継いで社会学者としての使命を果たしていてえらい!

でも、まだまだSNSの小さなコミュニティ内で意見を述べているだけでは弱いとミルズさんは言います。もっと国政にものを申せと言います。

必要なのは、(1)その内部で社会生活についてのアイディアと代替案が適切に議論されており、(2)構造的な結果をもたらす決定に真に影響を及ぼす可能性がある、という二つの特徴をもつ政党や運動、公衆である。

P267

西洋世界の重要な討議を続けており、しかもその知識人としての仕事が、政党や公衆の間で影響力をもっており、現代の大きな決定に意味をもっているインテリゲンチャは、どこにいるのか。そのような人々に開かれたマスメディアはどこにあるのか。

P258

さすが1959年って感じ。こうした言論にほだされて、60年代の学生闘争とかが始まったのかなぁと思うと、歴史を感じますね。まさに、そういう時代だったからこその解釈。歴史的背景が変われば、とるべき戦術も変わる。今はツイッター言論が強い時代のようですよ、ミルズさん。

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