平成
この怪文書は2021年のアドベントカレンダーの10日目のアーティクルとして書かれています。
オチはありません。
自分にとって2021年はどういう年だったか?
一言で言えば「還暦」です。
嘘です。あと二年あります。
より正確に言えば「迫り来る還暦」
あるいは「忍び寄る還暦」「振り向けば還暦」「今そこにある還暦」
恐ろしい…
還暦といえば Re born ですよ。リボーン。
etoシステムのオーバーフローですよ。
ついこの間まで30代でお姉ちゃんのお尻ばかり追いかけていたと思ったのに、気がつけば老人界にデビューです。 先日は深酒した翌日に右足が痛くなり、それをかばって変な歩き方をしたせいで左足の膝の古傷が暴れだしてまともに歩けなくなり
…という流れから、都合3週間ほど在宅を余儀なくされる羽目に。
立派なジジイムーヴですな。やれやれ
まぁ冗談はさておき。
真面目な話をすれば、
コロナで明け暮れた昨2020年とは違い、今2021年は自分にとって
「平成の終わり」だったなぁという印象が強い。
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かつて山田さん(誰)が
「2001年を迎えて21世紀になったわけだが20世紀がその瞬間にドカンと終わるわけではなく、少しずつ終わっていく。本当に21世紀になるのはおそらく2008年頃のことになるだろう」
という趣旨の預言をしていた。
そのならいで言えば。平成の天皇であった明仁が帝位を退き徳仁陛下の令和の時代の幕が開けたその時点でドカンと平成が終わったわけではなく、平成は令和と併存する形で続いていた。
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1964/昭和39年の生まれ。
特になにもなくストレートに大学に進み1987/昭和62年に学部を卒業した。
昭和63年から64年にかけての暮れ正月は朝日広告賞の公募に挑戦しており、その作品で昭和最後の朝日広告賞(#)を頂いたところから少し名前を覚えてもらえるようになり、なんとなく仕事をはじめた。
そうやって考えると、自分は昭和生まれだけれども、デビューしたのは平成の幕開けと同時であり、平成という時代の中で仕事をしてきたんだなぁと思う。
つまり「昭和生まれの平成人」だ。かつて「新人類」と呼ばれた1960年代生まれは。
そして。
我らが芳しく麗しき時代であった平成の残余が、2021年末の2つの出来事を以て、ようやく終わったなぁ…という実感を持っている。
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「平成」
平成ってどういう時代だったかなぁ。
時代背景としては山一証券が吹き飛んだり、サリンが撒かれたり。二度の震災もあり。
写真界隈で言えば、つくば写真美術館構想に端を発して「美術としての写真」を認めさせようとする真摯な動きがあった一方で、ヘアヌードのなし崩しの解禁もあり。豊田商事事件から永野会長刺殺事件に至るスキャンダルジャーナリズムの時代でもあり。
// 永野会長刺殺事件は未だ昭和でした。スマソ
「年寄りは暇になると政治に口を出し、歴史を語るようになる」と古来言われる。(どこで?)
当事者になってみるとわかるのだけれども、自分自身の来し方についてすら、大筋の記憶はあるものの、細かいディテールや時系列が曖昧になってくるのが年寄りの記憶というもので。我が身の衰えへの不安から、どうしても自分の記憶を補完する「自分だけのための歴史書 = 辻褄の合わせの解釈の束」がひとつ欲しくなるもののようだ。
以下は2021年末に一人の老人初心者が綴る平成史の年譜である。
冗長なので、イラチな方はどうぞ こちらの 「便利なリンク」 から肝心の「2021年のマイベスト」までジャンプしてください(謎)
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平成の年譜
はじまりは昭和から
1979/昭和54年 エズラ・フォーゲル「ジャパン・アズ・No.1」
1981/昭和56年 新潮社から写真週刊誌「FOCUS」が創刊される。
1985/昭和60年 4月 NTT設立(日本電信電話公社から改組)
カメラ毎日 最終号 1985.4
6月 プラザ合意
円高ドル安への国際協調誘導政策
海外ブランドブーム到来
1985/昭和60年 6月18日 豊田商事・永野会長刺殺事件
「豊田商事事件」自体が昭和の大事件なのだけど、
それさえ吹き飛ばすような一大スキャンダルとして
起こったのがこの事件だった。
「殺人の犯行現場のテレビ実況生中継」である。
報道のために撮影を優先すべきか。通報や犯行阻止などの行動をとるべきだったのではないかと、大いに議論が紛糾した。
殊に「FOCUS」が掲載した生々しい写真は「テレビ中継はやむを得なかったにしても週刊誌ならば掲載を見合わせる判断があるべきだったのでは」という趣旨から強く批判された。
「スキャンダルジャーナリズム」という言葉が用いられ、翌年の「フライデー襲撃事件」を経て、さらに「写真週刊誌」への批判は高まった。街で撮影するアマチュア写真家まで「パパラッチ」と罵られることさえあるほどに「写真」に対する敵意が呼び起こされた事件だった。
一方で同年 「つくば写真美術館」 1985 が挙行された。
コレは何冊か公にされた「正史」があるので興味ある方はそちらを読んでください(謎)
俺テキには、永野会長事件と85つくば写真美術館が同年の出来事というのは一つの象徴的なありかた。
1987/昭和62年 10月19日。ブラックマンデー。
ニューヨーク株式市場で起こった株式相場の大暴落をきっかけとした世界同時株安。いわゆる「バブル崩壊」。
まだ海の向こうの出来事でした。
1988/昭和63年 1月5日 六本木トゥーリアでの照明落下事故
イケイケバブルなムードに陰りが…
この事件は正月の松の内に起きた惨事であったこともあり、いろいろアレで水をかけられた感じでした
1988/昭和63年 暮れ
宮内庁病院に入院中の昭和天皇の下血量と血圧/心拍などのデータが毎朝のテレビニュースで伝えられる日々
1989/昭和64年 1月7日
昭和天皇が崩御。
臨時ニュースで小渕恵三官房長官の記者会見が放送され、昭和天皇の崩御により直ちに改元を行い、新元号を「平成」とする旨が発表される。
(平成おじさん)
改元の期日は翌1月8日と定められ、昭和64年1月7日24:00から平成元年1月8日0:00へ。 「平成」の始まり
ちょうどその時に取り組んでいた応募作品の設定で「繁華街の風景を寂しい感じでモノクロで撮りたい。イメージは渋谷・円山町界隈」という案件があり。 不敬ではあるが渡りに船の状況が爆誕。キャストに「今晩やるぞ」と電話で声をかけて機材とフィルムを積めながらテレビのニュースを聴いた。
記念すべき昭和64年1月7日から平成元年1月8日にかけての午前零時は渋谷のスクランブル交差点や駅周辺、ホテル街で撮影しながら午前0時をまわり平成を迎え。
平成の時代に渋谷のあの交差点が暗闇に沈んだ期間が二つある。
はじめはこの崩御から大喪の礼までの「自粛」の期間であり、いま一つが2011.3.12未明の原発事故のあとの「輪番停電」の期間である。
====================== 以下 平成
「大喪の礼」行われる2月末までの間、あらゆるお祝い事やイベントが「自粛を強く要請」された。歌舞音曲(かぶおんぎょく)も憚られ、しばらくは重苦しい日が続いた。街の灯りは消され、渋谷の街も暗かった。
その「自粛」を批判した曲が忌野清志郎の「カプリオーレ」である。
また「自粛されることを強く要請」するとか「歌舞音曲を控え」とかいう耳慣れない言葉が市中でもかわされ、誰が責任者なのかもはっきりしないまま規制がまかり通るという我が国のお家芸がはっきりとした形であらわれた最初の例だろう。
1989/平成元年 11月19日 ベルリンの壁 崩壊
1989/平成元年 12月27日 羽生善治 竜王位奪取
19歳2ヶ月 当時、史上最年少
1990/平成2年 7月 写真誌「deja-vu」創刊
1990/平成2年 11月12日 即位礼正殿の儀
(ざっくり)大喪の礼から始まって即位礼正殿の儀までおよそ2年。この間毎日のように先帝の死を悼む行事を執り行うことが皇室の決まりごととしてあるそうだ。
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平成の最初の10年は、西暦では1990年代に当たり。
バブル崩壊後の不景気とは言われながらも、なだらかな下り坂の丘の上という感じでした。 昭和の終わりの「陛下の下血量から朝の話題が始まる」状況から脱した開放感もあり、世間にはそれほどの不安や危機感はなかった。
1991 五味彬 「YELLOWS」
篠山紀信・宮沢りえ 「Santa Fe」
ヘアヌードブーム到来。
以後前張りやモザイクなどの伝統芸能が廃れていき、荒木はゲージツ路線に(出禁発言
1991/平成3年 12月ごろ ソビエト連邦の崩壊
米ソ冷戦構造はソヴィエトの崩壊で消滅した。
当時は未だ中国が共産主義体制の中心的大国としてソヴィエトに取って代わるまでに成長するとは誰も思っておらず、資本主義と共産主義の対立構造そのものが消滅するものと予想されていた。しかし実際には米中の対立構造に移行されたにすぎず。そしてソ連の国際的な立場を継承したロシアも健在であり、核兵器もたぶん未だどこかで埃を被っているはず
1992/平成4年 3月7日 「美少女戦士セーラームーン」
1992/平成4年 10月5日 「ウゴウゴルーガ」
いやー。バブル崩壊以後の爛熟した世界…
しかし。神様というやつは人間が調子に乗っているとその足元をすくうような事件を届けてくれるもので
1995/平成7年 1月17日 阪神・淡路大震災
3月20日 地下鉄サリン事件
サリン事件では皆テレビに釘付けだった思い出がある。事件に巻き込まれた編成の一本前の列車に乗っていて難を逃れたという知り合いもいた。
余談だけど。
この写真はなんとなくデジタルカメラかなぁという気がする。94年にKodak DCS400シリーズが発売されているので、新聞社が速報性を最優先する現場に投入していても不思議ではないよなぁ。
1995/平成7年 8月 「deja-vu」休刊
一方で’95年には明るいニュースもあった。
Windows 95/インターネットブーム
8月25日 Windows95 英語版リリース
11月23日 日本語版発売
8月27日 テレホーダイ供用開始
「インターネット」という言葉が一般紙におどり、日本にもインターネットブーム/インターネット・バブルが波及した年でした。
写真界テキには 1995 「東京都写真美術館 開館」が大きなニュースか
1996/平成8年 瀬戸正人 「Silent Mode」
コニカ HEXAR(というカメラ)のサイレントモードを使って車内の人々の無表情な姿を至近距離から捉えた写真で話題になった。いろいろな意味で。
被写体となった人物が全て女性だったこともあり「盗撮」という非難も当然巻き起こった。
少しあとの話になるが。2000年頃になるとWindowsCE機(PocketPC)にCFカメラモジュールが用意されるようになり、あるいはSHARPが各キャリアからカメラ付きケータイを発売し、それらの普及によりネットワーク接続された無音デジタルカメラが市中に氾濫するようになる。それを使って車内で盗撮するという事件が起こり「車内での無音カメラによる盗撮」に対する忌避感が世間に行き渡る結果をも呼んだ。
以後、ケータイ/スマホの日本仕様には「シャッター音」が義務付けられた。
1997/平成9年 9月 google.com がオンライン
ただし英語サービス
1997/平成9年 9月14日 モーニング娘。 デビュー
平成といえば モー娘。である
異論は認めない
そして 山一 …
1997/平成9年 11月24日 山一證券の自主廃業
(事実上の倒産)
1998/平成10年
2月 新井将敬 急逝
4月 「民主党」が結党される。(日本)
7月30日 小渕恵三(平成おじさん)が
第89代内閣総理大臣に就任
1999/平成11年
ADSLサービス、iモード が登場
9月 Nikon D1発売
このときはまだ影響は限定的なものでした。
2000/平成12年
ミレニアムブーム/論争
千年紀の定義論争などを演出しつつも
お祝いムードを盛り上げようと企むメディア界
4月2日 内閣総理大臣小渕恵三が脳梗塞に倒れる
4月5日 内閣総辞職決定。衆議院議員選挙へ
5月14日 小渕恵三 死去
夏頃 google.com/intl/ja がオンライン。
日本語が通るようになる
(記憶に間違いがなければこの頃)
Amazon.co.jp がオンライン。
そして
2000/平成12年 9月11日 合衆国同時多発テロ攻撃/WTC崩壊
事件後にアルカイーダから犯行声明が出され、それに対して合衆国ジョージ.W.ブッシュ大統領から「これはテロリズムとの戦争であり、我々はテロリストを地上の果までも追い詰め滅ぼすまで決して戦いをやめないであろう」という声明が出された。 なお「我々」には同盟国/国連加盟国も含む…
来たる21世紀は対テロ戦争の名のもとにコングロマリットの利益が国益に優越する時代へ。
この年には竹下登、梶山静六も死去。戦後のドブ板から立ち上がった政治家の死去により、20世紀と伴に「戦後昭和」も終りを迎えた。
写真界/カメラ界では
10月 Canon D60 発売
この辺りから「デジタルで撮ってもらえませんか?」
みたいな話が増えて来ました。
スキャンフィーを削りたいくらいの不景気だったのと、
webへの速報対応でしょうね
安斎さんが横トリの撮影にD1を三台くらい持ち込んでました。
(2000年夏)
======================以下 21世紀
2001/平成13年 ビバ!21世紀 New century
フレッツADSL、Yahoo!BBがサービスイン
Wikipedia日本語版がオンライン
8月 写真週刊誌 Focus が休刊
以後、メディアの覇権から雑誌が退場していく。
(2010年以降はテレビや新聞も徐々に)
2003/平成15年 Movable type日本語化、tDiary、はてだ、Livedoor Blogなどがサービスイン。
「ブログブーム」(謎)
→ インターネッツのヘドロ化 → 次第に検索が役立たずに。
個人ブログなどにより、誰でも手軽な怪文書の発行が可能な時代に
「ネットで真実に目覚めた普通の日本人」の大量発生
匿名掲示板という痰壷が割れて、無秩序に痰が流れ出し…
2005/平成17年 4月 youtube.com オンライン
11月 いわゆる「姉歯」事件
後に国立競技場建替え問題や中央卸売市場移転問題で
暗躍した森山・高野コンビが最初に暗躍した事件でもある
2008/平成20年 iPhone3G 日本発売 Twitter、Facebookの日本語サービス開始
2009/平成21年 2月 中川(酒)事件
財務大臣を辞職
この事件を機に自民党・麻生内閣への批判が噴出。
6月 iPhone3Gs 発売
ハードウェアの腰回りの強化と、OSとしてカメラの
「動画」機能をアンロックしたことが大きな変化だった。
2009/平成21年 7月 民主党政権成立(日本)
10月 中川昭一 急逝
山田さん説を採るなら、21世紀の始まりは民主党政権の成立だったということになるのかなぁ(棒
個人的にはココが割と暗黒時代でしたね。
酒とバラの日々。
世間的には一見平和で大きな災もない代わりに硬直と停滞の時期だったように思う
=========================================2010年代
2010/平成22年 10月 instagram.com がオンライン
当初はiOSを対象にしたサービスだった
2011/平成23年 3月11日 東日本大震災と原発事故。
21世紀の第2・平成の第3のディケイドを迎え「テン年代」論に花が咲いていたところ、いきなりこの一発で全てが吹き飛んだ感がありましたな。
結局、2015年くらいまでは「震災後の世界」が盛んに語られ、そして「総括」を経て風化し。
2011/平成23年 5月1日 ビンラディン殺害
アルカイーダの指導者オサマ・ビンラディンのアジトを米軍が強襲・殺害
しかし合衆国はとっくに「世界の警察」役を降りており、国連の権威による治安回復などは望むべくもなく。中東パレスチナの混乱は収まることなし。とはいえ一応の「対テロ戦争/9.11」の終結ではあった。
2012/平成24年 4月 自民党 「日本国憲法改正案」
天皇を「国家元首」と位置づけ。自衛隊を
内閣総理大臣を総司令官とする「国防軍」と位置づける。
同年 11月14日 求心力を失った民主党政権の野田佳彦首相が
と、時の自民党総裁・安倍晋三との討論の中で「ご相談」したという…
はじめこのニュースを聞いた時には意味がわからなかった。
「殿ご乱心」というやつかと。
この事件を受けて党内部から反発が沸き起こり、11名の議員が離党。
このため議席数を減らした民主党は衆院過半数を割り込み少数与党に転落。
11月16日 衆議院解散
12月4日 衆院選公示
12月16日 衆議院選挙投票・即日開票
民主党は改選前議席230から獲得議席57に
大きく後退。
旧民主党系勢力との連立政権の維持を模索したが、成らず
2012/平成24年 12月26日 野田内閣総辞職
同日 衆議院において安倍晋三を総理大臣に指名
民主党政権の崩壊から第2次安倍内閣へ
第2次安倍内閣は先の「改憲案」に象徴される如くの戦前復古色を前面に打ち出しはじめ、それに対して野党勢力は反発を強め、国政は既に「与党対野党」ではなく「ウヨ対サヨ」の様相を呈し始める。 それぞれにネット雀やネット論客を巻き込み対立と分断は深まるばかり。
ガチリベラルのヒトであり、国民統合の象徴である事を自らの使命と考える平成天皇・明仁はこれを深く憂慮することとなる。 ウヨが「天皇マンセー」でサヨが「天皇制無用!」で反目して分断を深めていたら、「国民統合の象徴としての天皇」本人は、それは悩むだろうなぁと、俺も思う(謎)
なお。
同年 6月6日 三笠宮寛仁親王逝去 平成天皇・明仁のもっとも若い従弟
Adieu. ヒゲの殿下
2015/平成27年 空前の白紙撤回ブーム到来す
同年 7月17日 新国立競技場建設計画が安倍晋三により白紙撤回
9月1日 東京五輪エンブレムが白紙撤回
ネットで不適切だと噂すればなんでも有耶無耶にできる時代ガー
=================================令和への道筋
2016/平成28年 7月 生前譲位の意志
時の平成天皇・明仁が「強い決意を以て」生前退位の意思を固めたことを公に示す。
宮内庁が一旦それを否定するも、明仁が再びビデオレターという異例の形式で国民に退位の意思を伝え。「理解してもらいたい」と述べた。
この映像はTVブロードキャストとサイマルキャストで完全同時放映された。現代の「玉音放送」の感があった。
スゴイよね。このビデオの中盤に移る際のズームイン。「手動」だぜ
きっと本当の側近の近習だけで強行収録したんだろう
この玉音放送以後、世情は陛下の心情を慮る向きに流れ、宮内庁も沈黙し、皇室典範特例法の制定などの事務的作業がさしたる混乱もなく進められる。
2016/平成28年 10月 藤井聡太 14歳2ヶ月の史上最年少で四段試験突破
プロ棋士となる(そのまま公式戦を29連勝)
2016/平成28年 11月 「この世界の片隅に」劇場公開
2017/平成29年 6月9日 皇室典範特例法成立 同月16日施行
生前譲位が皇室典範の枠組みの中で可能になる
2018年/平成29年 藤井聡太五段 羽生善治竜王を破る
2018/平成30年 12月23日 平成天皇・最後の天皇誕生日
在位中最後の天皇誕生日のビデオレター
戦後昭和史・平成史をすべて人生のナマの言葉で語ることができるこの老人の存在。 同時にネットをも使いこなす天皇。
2019/平成31年 4月1日
新元号を「令和」と成す旨、
時の官房長官・菅義偉より発表される。(令和おじさん)
4月30日 明仁が退位礼正殿の儀を執り行い皇位を退く。
明治以降の憲政史上初の生前退位となる。
2019/令和元年 5月1日
皇太子・徳仁が皇位を継承し第126代天皇となる。
(即位礼正殿の儀は10月22日)
明仁は上皇位に就く。
同日元号を「令和」と改める。
明仁が平成の幕引きにあたって混乱を招かず粛々と進めることにこだわった背景を思うに。昭和の終わりに実父である昭和天皇・裕仁の緊急入院から重篤化、松の明ける日まで「ともかく生かしておく」ための措置としてパイプに繋がれた父の身体の側で「天皇の崩御」とそれによる混乱を体験した一人の人間としての意志と感情の発露だったのではないか。
現人神の子として生まれ、那須で地下壕に疎開し、終戦後に焼け野原の東京を目の当たりにし、長じてから皇太子として訪れた沖縄で火炎瓶を投げつけられ。「象徴天皇制」について考え抜き、全人生を賭してそれを全うした明仁の、人間としての意志だったのではないか。
=================== 以下は令和の出来事
2019/令和元年 10月22日 即位礼正殿の儀
令和天皇・徳仁は即位礼正殿の儀において、明仁の意思を受け継いで、「象徴天皇としての勤めを全うし、国民の幸せと世界平和を希求する」旨を宣明した。
それは、天皇を「国家元首」として位置づけ、「国防軍」の存在を明記するように憲法改正を行なうという、戦前復古主義的な自民党改憲案に対して牽制を行なう意図を示すものだったと感じる。
天皇陛下の宣明に続いて内閣総理大臣・安倍晋三による寿詞が述べられ、続いて内閣総理大臣の音頭による万歳三唱が行なわれ、21発の祝砲が放たれた。
いよいよつつがなく幕開けた令和の時代。
しかし、即位礼正殿の儀からわずか二ヶ月後に暗雲が立ち込め始める。
アウトブレイク
2019/令和元年 12月中旬 中国・武漢において原因不明の感染症による死亡例が報告され始めたとの報道。
SARSとの類似性が指摘され、警戒する声が上がり始める。
不穏な雰囲気のまま年の瀬を迎え2020年に。
2020/令和2年 1月6日
WHO中国事務所が1月5日付で
「新型肺炎」の流行に関する「アウトブレイク」の第一報を発する。
1月6日 付で全世界のWHO支部を介して伝えられる。
1月9日 謎の肺炎の原因が「新型コロナウィルス」であることが確認される。
2月 ダイヤモンド・プリンセス号
乗客のコロナ感染が確認され、対応をめぐり国内でパニックが発生。
(感染者は乗船前の1月19日に咳症状を呈しており、船内感染ではなかったとするのが妥当)
武漢におけるアウトブレイクはエピデミックに移行。
中国政府は武漢を都市封鎖し、続いて中国全土の大都市をも封鎖した。
COVID-19
WHOにより新型コロナウィルスをCOV-SARS-V.2、それによる感染症流行をCOVID-19と呼ぶことが決定される。
全世界に拡散されたウィルスにより、COVID-19はパンデミックの様相を呈し始める。
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2020/令和2年はCOVIDで全世界がメタメタ
でした。
2021/令和3年の初頭からmRNAワクチンの接種が始まり。
夏頃から日本もその流れに乗り。
当初は立ち遅れたものの驚異的なスピードで接種率が上がり2021年末の現在では世界で一二を争う接種率を実現。
御上の決めたことには従え!の同調圧力の強さがたまにはプラスに作用するもんだなぁと変な感心をしました(謎)
============================== ここからが本題です
平成の終幕へ
そして平成の最後を閉じたのが、先の衆議院選挙での民主党の敗北と秋篠宮眞子さまの皇籍離脱と小室圭氏との御成婚だったように思う。
2021/令和3年 10月26日 小室圭さん・眞子さん ご結婚
10月31日 衆議院選挙 投票/即日開票
自由民主党が単独で安定多数獲得。自公連立による政権を維持。
立憲民主党の惨敗。
眞子さまの皇籍離脱と小室氏との結婚はまさしく新しい時代の到来を告げるものだったと思う。 「時代」とは、戸籍もなく基本的人権も認められなかった皇族にも恋愛結婚の自由が認められる時代である。
そして、つづく衆議院選挙の結果は各党の「大物」ベテラン議員が軒並みに落選し、世代交代を強く印象づけた。
「平成」の終わり。
幕開けから酷いことになってしまった令和という時代だったけれども、とりあえず2021年を以てようやく平成に決別することが出来てよかったと思う。
それにしても。
子供の頃から「激動の昭和」と言われるのをさんざん聞いてきたけれども、こうやって見ると「平成」もなかなかしんどかったような気がする。
「令和」もきっと…
リルビットヤンガーブラザースの奮闘を祈念するものである(謎)
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2021年のマイベスト
というわけで、2021年のマイベストは 「平成の終わり」 とします。
あと。セカンドベストとして 新型コロナワクチン接種の実現 も挙げておきたい。
菅義偉前総理には感謝します。就任当時は「パッとしない爺さん キター」とか思っており申し訳ありませんでした。
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最近の私
相変わらずバイクを作ったり、バイクで走ったり、オザスタで写真を撮ったり、短い文を書いたりしています。
fpを導入
SIGMA fpを導入しました。A7Rからの置き換えで。
たぶん仕事用カメラはLマウントのフルフレームとm4/3のLumixGシリーズに収斂していくかなという。
ソーラーマニア化
ドラム缶水槽のエアポンプをソーラーパネルで駆動するようにしたのを皮切りに、いろいろなものをソーラー化しています。
最終的にはインフラから一週間くらい切り離されてもネットに犬掻きで浮いてるくらいのところが目標(謎)
小鍋マニア化
春先にガスコンロが壊れたことを契機に、台所の道具類を独居老人仕様の小型のものに続々買い替え。殊に鍋については16cmクラスの2L以下の容量の小鍋だけで7個くらい買った。春先から夏前にかけての間に鍋だけで10万円ほど散財した計算になる。
気違い沙汰である。
「2万円以下なら鍋としては安い」という感覚に染まり始めているのでかなりヤバいと思います。
2022年に向けて
白馬号
昨年のアドベントを読むと今年中にボアアップして黄色ナンバー化するという話になっていたんだけど結局果たせず。 現在のプランでは、正月に塗装をできるだけやって、併せてステムOHと電装回りを引き直すつもり。エンジン積替えとポアアップは夏頃かな
お仕事
足腰にかなりヤバみを感じてきているのでオザスタで撮れる方面とか書き仕事にシフトしていければベストなんだが。 んーむ。
がんばります
その他
昨年は結局また花見ができなかったので、今年はきちんと花見がしたい。
展示の話もなかなか難しいことになっているけれども、とりあえずはブツを形にするところに向けて。
=============================== 結びに
けっきょく「平成」といえばモー娘。とセーラームーンだと思います。
あと。キャバ嬢とガンダムの話はしないほうが良いそうです(謎)
season’s greeting.
Dear friends and Everyone.
I hope that the coming year will be good and peaceful for yours.
May God bless you all.
I wish you Merry Christmas and a happy new year.
and
May the force be with you.
明日は愛ある人に愛あれ 愛なき人に愛あれ
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このアーティクルは2021年のアドベントの12月10日分の記事として書かれました。
昨日のアーティクルは nobokoさん が書いた「パルクールだったのかもしれない怪文書」でした。
明日は voupvさん のご登板です。 お楽しみに