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041 般若心経5

是故空中無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無限界乃至無意識界

 ずらっと「無」が並んでいる。私達は、物体であれ、感覚であれ、何かが有るということについては認識することができて、理解することもできる。しかし、何かが無いということについては、どう考えたらよいのか途方に暮れてしまう。もう一つ大きなテーマが突き付けられている。それは、「空」と「無」である。「無」と対を為す語は「有」である。これまでの文意の経過から、「空」は有と無から成り立っていると思われるが、増々難解である。
 さて、ここで【五蘊】が出てくる。【色受想行識】である。この世の中の構成要素を自分自身の内と外に分ける。外を【色】とする。自身の肉体を内と考えるか外と考えるかについては微妙である。
 【受想行識】は内である。【受】は外からの情報をキャッチすること。【想】は情報を理解できる形に変換する。【行】は難しい。他の文脈でも何回か出てくる文字であるが同じ意味で使われているのか不明である。何か情報に触れて考えるということらしい。行動に通じるものがあるかも知れない。【識】は認識するということ、つまり考えた上で理解することである。
 【眼耳鼻舌身意】は文字通り情報を受け止める器官である。【意】は第六感のようなものか。例えば、悪意とか善意とかを受け止めるようなものである。【色声香味触法】はそれぞれの器官が受け止める情報の種類ということになる。【法】は心の感覚か。【限界・意識界】はあらゆる情報の及ぶ範囲のことであろう。
 だいたいの意味はこんなところであるが、この分析は現代においても通じるものがある。神経や脳に関する研究が進んでいるが、体外の情報を身体がどのように受け止め、伝達して、反応しているかを解明している。その研究成果は、般若心経の考えをサポートしているように思われる。
 さて、今度は【無】について考えなければならない。ここに並べた文章は、単に世の中は【無】であると言っているのかどうか。無を形容詞と捉えるか、動詞と捉えるか。前者とすると、我々は「そうなんですか」と言って納得できれば先に進むことになる。後者だとすると、「無からしめよ」「無くしなさい」と言われてるので、戸惑いながらも先に進むことになる。私には、後者のように思えてならない。

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