『道徳形而上学原論』戦記


幸福を求めるな 幸福に値するものとなれ


って、倫理の教科書で出会ったのは高3の何月のことだったんだろう。

きっと、センター試験に向けて、政経を捨てて、倫理に絞ったあたりで出会ったものだろう。

まずは教科書を読み込もうと、西洋哲学のページを一言一句漏らさず読んでいたときに、この言葉が目に止まった。なんでそんな効率の悪そうなことを頑張れたのかも、分からないけど、今考えたら、やってよかったなとは思う。


最初は、カントという超有名な哲学者の格言のようなものがカッコいいな、幸せは能動的に動かないと掴めないよなとズレた解釈をしていたが、あまりにも力強い言葉が、受験生のナイーブな心に刺さり、その日から私の座右の銘となった。

ただ、座右の銘とするからには、その意味をきちんと理解しなければならないと考えた私は、その文の注にあった『道徳形而上学原論』を購入しようと思い、書店に向かった。岩波文庫の哲学書の鮮やかな青の背表紙をたどるとそれは見つかった。表紙には、「手ごろな入門書」とある。倫理の勉強にもなるかもと足取り軽く購入した。


そして、それを開いた。私にとっては初めての哲学についての本であったが、ページは少なく、何とか読めるだろうと思っていた矢先、出鼻をくじかれた。読めないのだ。第1章の入る前の序言から、読めないのだ。漢字が難しかったり、知らない単語が多かったりする訳ではないため、文章は読めるのだが、内容が1ミリも理解できないのである。

何とか食らいつこうとページを進めたが、カントの独特な単語の使い方をほとんど知らない私にそのままの訳本が理解できるはずがない。序言を読み終えることもなく、そのまま眠りについてしまった。


日を改めてチャレンジみてもそれは変わらない。教科書でカントの思想に触れた所で、何も変わらなかった。どうやっても寝てしまうため、寝られないときに読む、睡眠導入剤的な読み方をしている期間もあったほどである。

私にカントはまだ早かった。

一生理解できないのかもしれないとショックすら感じていた。


しかし、その反面、不可思議なものに惹かれてしまうように、私はカントに惹かれていた。

そして、悔しさとが私の中に残り、大学生になったら、これを読めるようになろうという決意をしたのであった。


大学生になり、西洋哲学の講義を担当する先生に出会った。その先生の専門はカント哲学であった。この先生の元でならカントを学ぶことができるな、と思い、少しずつ哲学の道に足を踏み入れていた。

それからも、たまに読み返しはしたものの、一向に読める気配はなかった。文章を何とか理解しようとしても、少し休憩してしまうとどこまで読んだかわからなくなってしまう。200ページもない所詮入門書ではあるのに、巨大な、誰もを包含してしまうような思考の宇宙がこの本に入っているような恐ろしささえ抱いていた。


ただ、徐々にカントに関する文献を読む中で、少しずつカント哲学が理解できるようになってきた。理解できたといっても、ざっくりとした、入り口にも満たないようなものであったが、何も理解できないかもと嘆いてた私にとってみれば大きな進歩である。

先生からも、『人倫の形而上学の基礎づけ』を薦められ、いずれ読むことになるだろうと思わず購入した。もちろん、まだ読めていない。


ある授業で、カントの思想を包括的に論じる文献を読む機会があった。それはかなり分かりやすく書かれたものではあったが、かなりスムースに読むことができ、ここまで理解できるようになったのであれば、『道徳形而上学原論』も読めるのでは?という思いが湧き、とうとう決戦となった。


結果、読破した。

全て理解して読んだかと言われるとそこまでにはまだ至れていないが、単語が分かり、文章を理解しながら読むことはできた。

本を「読める」ことをこんなにも嬉しいと感じたことは初めてであった。

今までは、1ページを読むことですら苦痛であったのに、理解できる、先が読みたい、と夢中になって読めるようになるなんて思ってもいなかった。最後の方は半ばハイになっていて、終わったあとには、酷使したパソコンのごとく頭が温まっていたように感じ、なぜか息切れをしていた。


読めた。とうとう読めた。3年越しの勝利である。

今すぐ、3年前の私に報告をするためにタイムマシンに乗りたい。


結局、読んで理解することが目的となっていたため、自分の問題意識と結びつけて、新たに考えるということはまだできていない。内容も全て理解したとは言い難い。まだまだこれからも何度も読み直すことが必要だろう。

哲学書は20年は持つ。と先生は言っていた。きっとこの本を私は大学を卒業した後も、人生の中でこの本を何度も読み返すのだろう。というか読み返すことを今決めた。今、高校生の自分に縛られてこの本を読んだように、今の自分で未来の自分を縛り付けておけば、きっと読むことだろう。


そして、ここで終わる訳ではない。次は『プロレゴメナ・人倫の形而上学の基礎づけ』を読む。もしかしたらまた出鼻をくじかれるかもしれないが、いずれ読めるようになると信じよう。今回の学びである。


という、本の内容にはほとんど触れない読書感想文であった。というよりも、やっぱり、私と『道徳形而上学原論』の戦記であったかもしれない。


P.S.

これは、ただの宣言であるが、今年の夏は『純粋理性批判』を読みたい。

既に難関だとわかってはいるが、カントを学んでいくうえで、そしてカントを尊敬する人と言うためには、読まなくては失礼にあたる気がするため、挑戦したい。





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