自己実現欲求不満

なるほど、開催が私の幸せになるんですね。

じわじわと自分の感情を忘れてしまうので、4/27にタイムスリップしました。


私はそれを好きなので。

好きなものが失くなってしまうことは悲しい、なんてそんなこと私でも分かる。

いや、私は今が一番好きだと思って生きているはずなので、関わりが薄くなると、自分の感情も薄くなってしまうために、本当に好きなのかについてはまた別な問題ではある。


そのせいで悲しいのか悲しくないのか分からず、しかし、過去の自分を顧みると、一般的に考えると、今、私は悲しいと考えているはずである。

そうだとして、何故今、悲しいと思っているのか?そのまま考えれば、悲しいことなどないはずなのに。


未来に享受できるはずだった幸せが失くなってしまうことに不幸を感じるのは何故なのだろう。
現時点はゼロで、ただこれからもゼロであるだけで、プラスはないが、マイナスでもないのに。平坦な時間が過ぎることに幸不幸も何もないのではないか。


しかし、そう考えながらも、直感的には不幸であるように思う。


確かに、手に入れるために時間も労力も注いでいて、手に入れることを願っていた、楽しみにしていたのだから、手に入らないとなってしまったことを嘆くのは全うな感情であるように見える。
ただ、私は合理主義でもないから、自分の時間や労力が無駄になったことに関して強い感情は抱かない。
けど、その全うな感情も理解できるし、自分もやっぱりそうであるのに、上手く受け入れることができないのはどうしてだろう。


いや、私の19歳が無駄になっていることには腹立たしさでいっぱいです。


望みが叶わないこと、自分が思い描いていた未来とはかけ離れた未来になったこと、理想と現実が乖離していること、が関係しそうだとはすぐに考えることができる。


自分は努力したが、その結果、努力不足のために叶わないことに、感情が半減することは痛いほど身に染みている。ここでは、感情が半減するというか、そんな感情持ってはいけないという自制心や、他人の目を気にする故に感情が半減しているように見えるだけだが。あくまでも私の経験則。あまり関係はない。

努力して努力して手に入れようとして、それでも自分の力ではどうにもならないことは、しょうがない。嘆くしかない。もちろん、それまでの過程を評価したり、次へのステップとして捉えたり、ということは可能であるが、それもあまり関係はない。
どうにかなると思っていたことが阻止されることは絶望的なものだ。それは理解することができる。これも経験則。


これは、もしかして、これが、
自己実現欲求なのか?


より良い自分になりたい、よりよい未来にしたい、よりよく生きていきたい、マズローの五段階欲求でいう、高次の欲求ではないか?

これが満たされない故の、悲しさ悔しさか?

欲求不満のために悲しくなるという理屈は、確かにスッと理解できる。たくさんの欲求を持っていながら、それが満たされないことに、怒りや悲しみを覚えることはよくあることだ。

それについて考えることもまた別問題なので、ここではそういうものとする。


その考えを取り入れると、未来に享受できたであろう幸せがなくなることに不幸を感じることは、未来において、自分がなりたかった自分、手にいれたかったものを手にできず、願望を叶えられなくなってしまったために、その欲求が今この時点で満たされないものとなってしまい、不幸を感じるということではないか?


これは、単純に私の疑問でしかないが、欲求は理性で抑える必要があると仮定するなら、高次で、あまり悪い欲求だと考えられていなさそうな自己実現欲も、理性で抑えるべき欲なのか?


欲求を抑えなくてはいけない場面は、一般的には、社会的には、他人に迷惑をかけてしまうとき、公共の福祉に反するときだ。

欲求はあまり公にはしない方が良いような風潮があるようにも思える。

そうすると、他人に迷惑をかけてしまうような自己の実現はしない方がいいことになる。それはそう。それでも、実現させようとする人は、いわゆるひどいエゴイストと言われてしまうだろう。偏見だが、そのような人はそう思われることに対して特別な感情を抱かなそう。

自己実現欲って聞こえは良いし、実現させようとすることは、評価されるようにも思える。夢を叶えるために努力することも欲求の一部である。それ故に見えなくなってしまっていたのかもしれない。

しかし、これも他の欲と同様に、抑圧しなくてはいけない場面があることは確かである。不思議なものだ。


今の私は、私にはどうすることもできない力によって色々な欲求を抑圧せざるを得ない状況にある。それは、全世界がそのような状況にある。


そのために絶望し、嘆き悲しむことは正当な感情であるといえるのではないか?


27日時点でごちゃごちゃにしていた感情は抜きにして、ただ単純に、自分の欲求が満たされないから悲しいというだけの話だ。
これで安心していくらでも悲しむことができる。


いくら欲求を公にしたくないからって、悲しまないようにするのは、おそらく現時点では間違っています。

それは私の問題。


苦しい それもエゴです。

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