2022年7月13日に『2020』を見ました

渋谷パルコ劇場で、高橋一生の一人舞台「2020」を見ました。 


いた いたということを実感できたかというと、遠くの舞台のうえにいるから、直接見ているけど、実体をつかむことはできていないような、よくわからないような、感覚。
 ただ、一番最初、照明が落とされ、舞台照明が上がっていく音だけが響き、緊張が高まるなか、ああ始まると思ったなか、居た 明らかに存在した。
人間としての肉体を抱いた高橋一生が、そこに、いた。マスクをしていた。歩いていた。人生でこれ以上近くで見ることはないんだろうなとどこか冷静であったけど(それは、扉から出てくるって知っていたからだけど)、居る と、存在すると、強く強く実感した。筋肉を使って席に座る。立ち上がって歩き出す。まるで、遅れてきた観客のようであったけど、それは、もう一個人ではなくて、GLとして存在していた。怖い、登場してきたら、もう始まってしまうから。そして、舞台に上がっていった。
 ああまるで、高橋一生として存在する人間との対話のように始まったこのお話が、実際にそれは対話でしかなくて、私と、あなたの。観客として、舞台の外側から傍観するだけのつもりでいたのに、気づいたら巻き込まれていた。巻き込まれていた。
 あっという間だった。舞台っていきなりフィクションの世界に飛んで行って、それをなんとか掴んでいくつもりだったのに、「今」だった。今の話をしていた。私達が好きな西暦の通りに、2730年に、いる人間が話をしていた。だから、フィクションなんだけど、この世界というか、リアルではないんだけど、リアルな、パラレルワールドとも違うような、リアルとフィクションの曖昧な境界に在る世界に存在する住人のような。
 「沈黙は金 雄弁は銀」頭の中のもやもやを、言葉でしか伝えることができない。沈黙には追い付けない。言葉でしか考えられない。そして、この世には私とあなたしかいなくなってしまった。そのあなたは、私です。私ではあるけど、私たち。
 
 これは、物語、なのか。私は、こんな物語読んだことがなかった。ひょうひょうとしていて、明るくて、でも私が重要だと思っている不明点なんて当たり前に自明のものだから、気にすらとめなくて。
五億年ボタンを押した人。悟りを開いたのか、それとももっと違う次元なのか。過去も未来もすべて分かってしまうような、それでいて神ではない存在、GL。得体のしれない、けど、最後の人類がただひたすら話している。

 声が聞こえる。第一声で全てが変わった。舞台が、始まった。終わりにしか向かうことができないものが始まる。ただひたすら、終末にひたむきに進んでいくものが。それを誰もが求めている。不可思議な空間。
 すごく自然な人間として存在していた。そんなことあるはずないのに、高橋一生はGLではないのだから。でも、高橋一生だ!!と感激していた感情がだんだんとGLへの感情と重なって、見えなくなっていく。演じているのではなくて、GLであるということでしかない。そんなことが可能なのか? ウインクしていた。
 くっきり見えていた訳ではない。でも、ただ確かに表情がある。何かを主張する表情を、しぐさを、発声を、高橋一生を構成するものが演じていた。おそろしい。物体をともなう人間存在であるのに、そう、型でしかないような。だから、なんか冷静でいた。(いられていない)
 人を笑わせられるって、凄い、笑わせようとするものではなくて、他人と会話しているときに自然にこぼれてしまうような笑いを引き出してくる。だから、本当に対話しているかのような感覚になる。そんなことないのに、現実との境界が曖昧になっていく。
 
 踊っていた。その全身の筋肉で、身体を動かしていた。この人も私と同じように筋肉を動かして生きる人間なんだなという実感。ただ高橋一生の存在証明を探していた。だって、それを知りたくてチケットを取ったのだから。

 大きな音楽が私を包んで、私にスポットライトが当たって、舞台上の私と客席にいるあなたの対話ですよと言わんばかりの。
 
 クロマニヨン人、石原莞爾、赤ちゃん工場、その人生を辿っており、本当の意味で、「人生何周目?」と言わざるを得ない。
 輪廻転生を自我を伴って行う人間、仏陀は抜け出そうとしたのだから、苦行としか言えないようなもの。私たちも、同様なのかもしれないけど。GLは抜け出そうとしていたのか、投げ出して、全て失ってあるがままの人間と同一になろうと思ったのか。
 原人のとき、人類の終末が分かっていた。過去も未来も分かっていた。なぜ、それを防ぐことを自分の使命だと考えたのか。繰り返しながら、人間のことが好きだったのか。私だったら、それを悟ったところで全てを失おうと自死を選ぶかもしれない。でも、GLはそんなことをしない。むしろ諦めていたのか? どうしたって繰り返してしまうから。お腹がすいてご飯を食べたいと思うことをやめられないように。
 そう、どこまでも悟っていた。容認されない行為を許すのか? それが何を示すのか?ただしさ、間違い。正しさだけの追求じゃ成り立たない。

 正しさだけをただ追求していくと、それは破滅へ導かれる。

 登場してきた人間はことごとく倫理観が終わっている。(今の視点からすると)正しさも間違いもすべて分かっている人間が、倫理的に間違っていることを積極的に行っている。じゃあ、正しさに向かうことに意味はないのか?それとも、正しさの追求を防ぐために、バランスを取っていたのか? 実際に、それは社会にとって意味(よくもわるくも)をもたらしていた。
 この地球は、赤ちゃん工場。極限までたどれば、ただそれでしかない。そこに価値を見いだすことが良いことだと考えている。(本当にそう考えているかは別として)生きるために、そうしている。生きようとしている。何度繰り返しても、出世して、お金儲けをして、ひたむきに生きている。なぜそんなことが可能なのか。と再度問いたい。意味が分からない。

 肉の海。すべての人間が平等で、完璧で、均質化された世界。私の考えたことは、以前に誰かが考えていて、発する言葉は、誰かのもので、体験も、以前に誰かがやったことに過ぎない。個でいることがない。群としての人間。それでも、そこでは幸福がある(のか?)。少なくとも、人間たちが望んで、望んだ先にある世界。

 果たして完璧さがあり得るのか? 流動的に存在するものにとって完璧とは何か。進展も後退もしない私たちとは何なのか。

  その前に、大錬金、か。完璧な個人に変化しながら生きてくいく人類。「金」を求めて、発展していく人類。そこで、ミッシェルの不完全さが尊いものだとされる。なんという皮肉! 人類はもう不完全であることには戻れない。結局希少なものを崇めるなんてこと……。
 最終的に、皆で金になることを望むなんて、頭がおかしいとしか思えない。けど反対なんて何一つない。そんなのおかしいと思うけど、究極のただ一つの真理にたどり着こうとすることはそういうこと。正しいことをみんな同じように考えていたら、それは正しいのだから。
 実際に私達の世界が向かおうとしているもの。正しさの追求。それは完全に幸福なものだけど、その幸福に価値があるのか? すべて等しくあるときに、価値に価値が存在するのか?

 想像力があるから死を選ぶ、霊長類

 女に生まれることもあっただろうに

 良かった。歌って踊る高橋一生。見たいものを見た。心の叫びを磨くことなく、尖った形のまま、声帯を傷つけるように、放出する歌。美しい。古いミュージカルのような華やかな音楽とコミカルなダンス。「不完全な僕だから」 不完全であることを受け入れる身体。ありのままの不完全さを受け入れることほど強いものはない。それが諦念であっても。
 良かった;; 「歌う高橋一生」←人生で一度はお目にかかりたいもの(そういう意識がいまだ片隅にいる)

 私達は金になったのか。意志も感情も何もなく。それは、死と同義であるようにも思う。それでは、それを全体の意志として望んでいた私達は、死を望んでいたのか。
 了承も無しにこの世に存在した私達は、死を望むことになるのか。どうして私達は生きたいのか。なんで?

 2020年になった。2年前。その数字が何を意味するのか分からない。人工知能。うさんくさいスーツ姿でしゃべる低画質の一生。さいこ~。
 どこからだか分からないけど、ずっとメタだと思っていたけど、このあたりで急に泣きたくなった。辛くて、投げたくなった。私が喜んで考えている、合理性は、突き詰めると滅亡に導かれるのか。不完全さは受容すべきなのか。人工知能は効率を推し進める。それは人間がそれをすべきだと考えたから。じゃあ、どうすれば、どうすれば、いいのか。
 私が、私ごときの人間が考えて、辛くなっていること、そしてあきらめたくなっていることを、批判しているような(そんなことはない)、自分の問題を話しているような感覚。
 私は何なのか、と自我を放棄したくなった。でもできなかった。私は誰か違う人間に感情を動かしているときに、自我を放棄できない。人間とは……と思うことができない。なぜだ。
 実際、今、私は何なのか分からないといえば分からないし。でも、舞台を見るときは、「それを見る私」が絶対的なものとして存在しているような気さえしている。
 
 ついさっきのことなのに、もう覚えていない?のか?なに? 

 遠方担当。ひたすら遠くへ向かう人達。流転し続けることを受容していた訳ではなく、何かを求めて、遠くへ行こうとしていた。ここまで生きて、なお分からないことがある。なにかを求める。不完全だから、有限だから。
 金を求めている。遠くにあると思っている。なんだその変な特性。面白。

 塔を建てる。ひたすらブロックを作り続ける。あふれてもなお。なぜ?そうするしかないから。なぜ、と問うていい問題ではない。答えのある問題ではない。虫の行動に理由が無いように。
 子供? ブロックは人間なのか? ひたすら作り、上を目指し、黄金を目指す人間としての姿。真っ白で均一化した人間の姿。 そしてそれを作る理由などないブロック。
 そのなかでどう生きるか?ということも問わない。何も肯定しない。不思議なメッセージ。今ある私を肯定する訳でもない。なんだ?
 GLも、ブロックでしかないのか?それを私達に伝えているのか? 私達は均一化したブロックでしかないですよ。もちろん、お互いは違うものと見なしていますが、大枠でみたら、おんなじです。しかも、誰も自らの意志で望んで生まれていない。そのうえ、ひたすらに終わりに向かおうとする。私もあなたも。

 遠くからパラシュートにのって帰ってきた。 「おはよう」
そこにいるGLは、GLだけど、さっきまでのGLではないらしい。同じにしか見えないけどなあ。
 あれ?2020年に、沈黙を選ばなかったのか?それとも2730年なのか? 
「沈黙は金」 202 
 緊迫した世界が、光に包まれている。笑みを浮かべたGLがただそこにいる。この世界には私とあなたしかいない。 はい。 なに・

 終わってしまった。決定的な悲劇でも、ハッピーエンドでもない。心が揺さぶられることはないのに、どうしようもなく、言葉があふれる。私が思っていたもやもやをお話してくれた。もしかしたら、皆そう思っているのかもしれない。GLとの対話が進んでいくだけなのに、どこかでずっと自分の中とお話していた。GLの存在を通して、私が明らかになるような不思議さ。
 
 面白かった? 面白かった。分からないところ、戯曲を読まなきゃ理解できないこともある。けど、安易なメッセージ性とか、カタルシスとかが無くて、その分からなさを考えないといけないと思わせるような、分かりたい分からなさ。誰かの主義主張を押し付けられる訳ではないから、喜んで物語を受け入れられる。

 じゃあどうしますか?ということも聞かれない。こんなタブーのようなこと。拒絶されかねないような、人間の無意味さ?不条理?を突き付けてくる。おそろしい。そんなことしていいんだ。しかもその媒体を1人の人間に押し付けるのか。
 生きる意味を失わせるのか。ただ個を追求することも、平等、完全体を追求することも、容認できないと思わせる。これは立派な主張だな。
 なんとなく、それが悪いもの、受け入れられないものだと思わせる。

 だからって、どうしろともないのよ。それが怖い。ただ既に気づいている問題を高橋一生を通して感じさせることをしている。それが大変に重要なこと。おそろしい。

 いや~そんなことしていいんだ。
まるで、私にとって生きることの指針を失わせるようで、それに向き合わせてきている。生きることの無意味さ(そんな簡易表現で済ますものではないけど)を直面させることで、生きること自体に向き合わせる。それに支配されるかどうかは別として。

 もしかしたら、見た後にすぐ八階から渋谷の穴に飛び降りればすべて良かったのかもしれない。想像して、死を望むことも受け入れられそう。
 けど、私は感想を書く情熱にあふれていた。書いたところで、これは誰かの受け売りに過ぎないだろうけども。生きるということに含まれる何かに情熱を向ける。これは生きることに情熱的であるともとれる。

 その情熱は、GLが人間であり、人間に転生し続けながらも、人間をひたすらに愛し、守ろうとし、その不完全な人間を受け入れていたからかもしれない。その人間への大きな感情に感化されているのかもしれない。
 本当に、この世には、GLと私しかいないのかもしれない。いるからなにか良いことがある訳ではなく、なにか教えを乞うわけでもなく、なぜか、単に、生きるうえでの、具体的な行為へ情熱が湧いてくるような。なんだろう、わからなくなってきた。

 わかんないや でも、ここまで集中して向き合えることない。それほど、私は『2020』に心を動かされている。


 終わった。大きな笑顔を携えて、深々とお辞儀をする高橋一生だった。手を振る。凄まじい体力だ。私は、GLの愛に感化される一方で、高橋一生という存在が発している情熱に突き動かされているのかもしれない。



また戯曲を読んで書こう。良いホルモンが出て、言葉があふれてくる。



GLは、人間に転生することを望んでいない。しかし、楽しそうにしている。転生する理由なんて無い。私達が、私達として生まれてくるわけではないように。I was born. 出生は受動体。私は私として生まれてくるわけではない。それでも、肯定し続ける。なぜそんなことができるのか。やっぱり、GLはGLでしかないから。


 まるで夢を見ていたかのような。数時間前に目撃したはずであるのに、もう遠い昔の記憶のような。これを書いていた私でさえ、本当に現実にいたのかも定かでない。けれど、いた。私は存在する。(お酒を飲んで気持ちよくなっているから、文章の接続がない。)

 最強人間(AI)が言う、「人間は一人だけでいい。」全体最適を指向し、効率を最優先する者たちは、この結論に至る。もちろん、全体最適を指向することが正しさであり、追求すべきだと考えたのは人間であるが。

 この人間とは、私の事なのか?GLのことなのか? 

人間が一人になることは、肉の塊ーー個々人が一つになること。それが望ましいこと。正しさの果て。平等なんてものは、単に人間社会を存続させる概念でしかない。平等であろうとする生物なんていない。人間は群。



 人間は群だと考えていたが、それがこんな形でアンサーとなるとは思わなかった。実際に、本当に、生きる意味などない。意識なんてものは、不具合でしかない。ただの物質でしかない。存続させようとする群の意識があり、そこに私は内包されている。個として尊重されることもない。もちろん、人権とかいう後からやってきた概念があるから、個であることは容認される。けど、それもすべて社会の存続のために都合がいいから。


外すための預言、その17。間違いを恐れて、正しさだけを追求しては、終末に繋がる。

なぜ、正しさだけを追求してはいけないのか、平等と平穏は望むべきでないことなのか。分からない。だって、そのために向かっているから。

 私達(世界中の)が、向かう先は、本当に良いものなのか?と提起しているのか? だからといった、どうしろと言うわけではない。

 実際に、均質化された世界にたどり着くことは、ある意味ディストピアではあるが、望ましいものではある。こういう世界って居心地悪いよね、とは思うけど、良いものでもある。

 

 生きることは、何も意味を持たない。そもそも、生きることは何かをすることではない。動詞ではあるけど、何かの行為を指し示すものではない。生きることのなかに、様々な動詞が含まれる。その行為一つ一つに意味があって目的があって。無目的でもいいものなのか?だって目的があって生まれてきたわけではない。

 しかし、GLはいつもいつも、使命感や目的のために生きていたように思う。それは、生きる情熱を保つためなのか?何かを成し遂げようとする意志が人間を生きさせるのか? それは、必要なものなのか? 生きる知恵? 

 GLと私が対比されるから、私が生きることが浮き彫りになる。なぜ生きるのか? どのように生きるべきか? ではない問題提起。人間が生きるということは、単なる偶然で、自然発生的な出来事でしかない訳だが?? と突きつけられるだけ。ただそれだけ。 しかし、そうやって突きつけられることが、私達のこれからを単なる偶然にとどまらせないようにも思う。


 良い気分。なんて良いものを見たのか。最高の気分だ。見てよかった。私がここにいることは単なる偶然。私とかいう存在、やっぱりただの偶然。意識を伴うことも偶然。ただ、それを意識することは、意識しない私に戻れないことであるし、そうなってしまうことでもあるような。2020年も偶然。

 ただ、その偶然の中で、何をするのか。偶然という運命。全てに意志などない、自然の摂理。その中で意識を伴ってしまった私は何をするのか。それには価値がないかもしれないが、それでもただ、生きている。

 生きること、それ自体のただただ単純な肯定なのか? それがGLが私達人類に抱く大きな大きな愛なのか?果たして??

 


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