【丸田陽七太】6歳から示した意志と思いの強さ「格の違いを見せたい」(森岡和則会長) 2022年5月15日
◇WBOアジアパシフィック・フェザー級王座決定戦
&日本フェザー級タイトルマッチ12回戦
日本王者 WBO・AP1位
丸田陽七太(森岡) 14戦12勝(9KO)1敗1分
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日本1位 WBO・AP3位
阿部麗也(KG大和) 26戦22勝(10KO)3敗1分
いつか岩佐亮佑(セレス)に尋ねたことがある。もし、セレス小林会長が千葉県柏市にボクシングジムを開いていなかったら、と。柏で生まれ育った世界チャンピオンは、間髪を入れずに答えた。僕の人生、変わってましたよね。
「ボクシングやってたのかな? やってなかったかもしれないですよね」(岩佐)
当時、隆盛期にあったK-1に感化され、キックボクシング、極真空手……何か格闘技をやりたい、東京に探しに行こうかな、と考えていた。そんな時期のことだった。
2003年秋、セレスボクシングスポーツジムがオープンする。数ヵ月後、ひとりの少年がふらりとジムにやってきた。入会は中学2年の2月28日。小林会長の31歳の誕生日の翌日だった。パッと見て、運動神経のいい子だな、と。
もっと大きな“ギフト”だったことに小林会長が気づくのは、さらに数ヵ月後。岩佐が中学3年の夏休み。初めてスパーリングをしたときだった。相手のパンチはまったく当たらない。岩佐のカウンターはビシビシと決まる。
「もう宝物を発見した感じ。すっげえのを見つけた! と思った」(小林会長)
もちろん岩佐が小林会長の勧めで習志野高校に進み、高校3冠を果たすのは、その後のこと。決してアマチュア実績のある有望株をスカウトしたわけではなかった。
そういう出会いがボクシングジムにはある。
今回、フェザー級の2冠を争う2人。丸田陽七太、阿部麗也もそうだった。森岡ジムは兵庫県川西市、KG大和ジムは神奈川県大和市。それぞれ、大阪と神戸、東京と横浜、都市部からは離れたベッドタウン。ある日、そんな郊外にあるボクシングジムにきらりと光る原石はやってきた。両会長に愛弟子への思いと試合に向けた期待を語ってもらった。
“習い事”を探して、丸田が母の和美さんと初めて森岡ジムを見学に訪れたのは幼稚園の年長、6歳のときだった。森岡和則会長が回想する。
「かわいらしい顔した、ハンサムな男の子でしたね。まだシャイな感じでね、お母さんを通して、僕らに伝えるようなところはありましたけど、意志ははっきりしてましたね」
当時のジムは子どもを受け入れていなかった。その日、最初に幼い丸田の相手をしたのは、先代でメキシコ五輪バンタム級銅メダリストの森岡栄治会長だった。
「その前の池田(大阪府池田市)にジムがあったときに来てた子どもたちって、走り回るし、言うことを聞いてくれへんかったから、大人だけでいいと思ってたんですよね。親父は子どもが好きなほうやったから。これやりって言ったら、真剣にやるし、サンドバッグ打ってみって言えば、ずっとやってるし。あ、この子は違うな、と。で、親父が週1回ぐらい見たれ、言うて。週1回からスタートしました」
ジムが川西市に移ったのが2002年11月末。川西在住の丸田親子との出会いは、移転から約1年後の2004年1月のことだった。
元アマチュアの選手で、近畿大学卒業後はボクシングを離れ、別の仕事をしていた長男の森岡和則会長がいずれジムを引き継ぐと決めたのは移転が決まっていた2002年の春。それまでも週1回、トレーナーの手伝いはしていたが、父の教えを受けながら、ジムの運営とともに本格的に指導経験を積み始めた。
まるで森岡会長が丸田を迎える準備をしていたようにも思えてくる。
「自分がこれをやりたい、これがほしいと思ったことに対しては、どうにかして、それをつかもうとする、絶対に諦めない、そういう子でしたね。何もズルいことをしてまでとか、そういうんじゃなくて、それが自然と素直にできるんです」
週1回、1時間の練習を終える。でも、まだやりたい。晩ご飯のあと、またジムに来る。「週1回やから今日、もう1回やらせてください!」。「週1回やし、1日1回やで」と諭す。次の日、またジムにやってくる。「え!? 何しに来たん?」。「見学に来ました!」。熱心に練習を見学する。
「来てたらね、帰れとは言われへんし、これやるか? ってなるじゃないですか(笑)。そしたら、はい! 取ってきます! って、車に積んできた練習道具を取ってくるんです。ちゃんと用意してきてるんですよ。ちょっとでも隙間があったら、練習やらせてもらおうみたいな子でしたね。週2回やるか? 週3回来るか? ってなっていきますよね」
最初に森岡会長が強い印象を受けたのは、動きに光るものがあったとか、センスが抜群だったとか、そういうことではなかった。
「思いが強いですね。何でもそうですけど、そこから始まるから。それから思い続けて、そのためにやり続ける、継続していく力。そういうところがずば抜けてましたね」
2004年11月に病気で亡くなる森岡栄治さんは当時、すでに現場を任せ、選手の指導をすることはなかった。丸田には声をかけ、ミットを持つことがあったのも、まだ6歳の子どもが示した「思いの強さ」に打たれたからではないか、と森岡会長は言う。
背景にあったのが自分で考える力。それは母が仕向けたものだったという。
「ああしなさい、こうしなさいとは言わないんです。いつも、こういうときはどうするの? と考えさせる。会長はこう言うてるけど、どうするの? 考えさせて、見学に来るとか(笑)。もし、練習してもいいよって言われたら、どうするの? 練習道具を持って行くわって、用意しておいたり。その頃から、この先、起こり得ることをイメージして、いつも準備ができてる子やったですね」
幼い頃からの習慣であり、磨かれた能力がボクシングにも生きることは言うまでもない。
次に見せつけられることになるのが、強烈な「負けず嫌い」だった。森岡会長との練習でできないことがある。悔しい。すると翌日にはできるようになっている。自宅でできるまで練習してくるのだ。
「明日までにできるようにしてきなさい、なんて言ったこと、1回もないんですよ」
スパーリングをやるようになる。やられると激しく悔し泣きする。どうすれば勝てるのか。食い下がるように森岡会長に尋ねる。教えられたことをできるようになるまで練習する。また勝負を挑んでいく。
そんな日々を何ヵ月、何年も積み重ね、コンビネーション、動き、戦い方、次から次と身に着け、自分のものにして、丸田陽七太というボクサーは形づくられていった。
小学5年から第1回大会が開催された15歳以下のU-15ボクシング全国大会に中学3年まで5年連続出場、3度の優勝を果たした。中学3年のときはアマチュアが主催した第1回全国幼年ボクシング大会も制覇。関大北陽高校時代は1年、2年のインターハイで準優勝、アジアジュニア選手権3位と実績を残し、実戦経験を蓄えた。
プロのジムで育ち、プロ志向が強かったこともあって、高校2年の途中でプロ転向を決断。あらためて確認した思いがある。
「『僕は会長と一緒に森岡ジムから世界チャンピオンになります』。陽七太は小っちゃい頃からずっと言ってくれるんですけど、まったくブレることがないですね」
だからこそ、今でも思い出深いのが18歳で迎えたプロデビュー戦という。いきなり31戦のキャリアがあるIBF世界バンタム級10位、ジェイソン・カノイ(フィリピン)を迎えた。
「今、考えると一か八かですよね。僕自身は別に世界ランカーじゃなくても、と思ったんですけど、陽七太がやりたがりましたからね。何人かの候補の中から、こいつとやらせてください、みたいな感じで」
3回にコンビネーションの中の右ストレートで倒すなど、途中で左の拳を痛めながらも6回判定勝ちで堂々の初陣を飾った。
「めちゃめちゃ感動しました。自分の選手が世界ランカーと試合をするのも初めてでしたし、映像を見て、イメージはありましたけど、自分の中で未知のものと18歳の男の子が戦ってる。でも、ダウンも奪うし、この子はすごいなっていう感心しかなかったですね」
もともと体ができあがってくる23歳頃が勝負をかけるタイミングと考えてきた。プロデビューから5年あまり、23歳10ヵ月で迎えた日本フェザー級タイトルマッチで王者の佐川遼(三迫)を7回TKOで下し、ベルトを奪取。心技体が噛み合い、いよいよ準備は整ったと考えている。
今回の阿部麗也戦に向け、森岡会長には「歯がゆい思いがある」という。
「日本のフェザー級で一番強い佐川選手に陽七太は勝ったんですよ。阿部麗也くんは佐川選手に負けたんですよ。その負けた相手を倒して、強さの違いを見せたと思ってるんです。でも、世間の人は、どんな展開になるんやろ、と、阿部くんに勝てますか? みたいなのをチラッと感じるんです。評価はしてくれてると思うけど、まだ僕らが思ってるぐらいの評価はされてない」
さらに言葉を重ねた。
「だから、ここで負けとったら、アカンわ、と余計に思うし、申し訳ないけど、格の違いを見せたいですね。向こうも陽七太を研究して、丸裸にすると言ってましたから、どんなことをしてきてくれるか、楽しみです。けど、もう、世界に行かなアカンやろ、と誰もが感じてもらえるような試合になると思います」
<船橋真二郎>
●ライブ配信情報
▷配信プラットフォーム:ABEMA
▷ライブ配信:5月15日(日)12時45分~試合終了時刻まで
▷料 金:無料
▶視聴サイトはこちら
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