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【狩野ほのか】野球、早大理工学部、競艇……選択の先でつかんだチャンス。「ここで倒して勝ちたい」。 2022年9月1日

◇WBOアジアパシフィック女子アトム級王座決定戦8回戦

 日本女子アトム級2位
 山中菫(真正) 5戦5勝(1KO)
 ×
 日本女子アトム級3位
 狩野ほのか(世田谷オークラ) 6戦4勝(2KO)2分

この試合に勝てば…

人生は選択の連続である。そして、その選択の先で思いがけない道が開けることがあり、その陰には大抵、運命的と思えるような出会いがある――。

狩野ほのかもそうだった。

「楽しみですね」。はにかんだような笑顔を浮かべた。2019年3月のプロデビューから3年半。初のタイトルマッチが決まった、からではない。

「タイトルマッチどうこうより、強い選手とやれるのが楽しみです。山中さんはみんなに知られているじゃないですか。チャンピオンになって当たり前と思われているような選手と戦えることがすごく楽しみなんです。プレッシャーがすごいんじゃない? って、周りには聞かれるけど、プレッシャーも何もなく。早くやりたくて仕方ない、みたいな」

 無敗同士、ともに初のベルトを懸けた王座決定戦だが、2人の立ち位置は異なる。対戦相手の山中菫は、元WBO世界ミニマム級王者・山中竜也(真正)の妹として、すでにプロテストのときから注目を浴びてきた存在。より大きな期待がどちらに集まるか、十分に理解している。

「チャンスだと思っています。逆に自分なんて、知られてないじゃないですか。みんなが勝つと思っている山中さんに勝ったら。自分のことを知ってもらえるかな、と思って」

野球から始まった紆余曲折の道


 デビュー戦から、さかのぼること1年前の2018年2月、23歳でボクシングを始めたとき、狩野の頭にあったのはプロボクサーではない。目指していたのは競艇選手、プロのボートレーサーだった。

「(体重制限のあるボートレーサーは)ボクサーの体型と近いと思ったし、ボクシングの体の使い方と似ているところがあると思ったので」

 当時は、難関として知られるボートレーサー養成所の入所試験を2度、受けたところで、1度は最終選考まで残った。あくまで競艇のためのトレーニングのつもりだった。

「でも、始めてみたら、『ボクシング、楽しい!』ってなって。競艇は忘れました(笑)」

 東京・世田谷に生まれ育った。最初の夢。それは女子プロ野球選手だった。父がコーチを務め、2つ年上の兄が入っていた少年野球チームで「気づいたら」、5歳から男の子に混じって、ボールを追いかけていた。

 父も娘の夢に寄りそった。女子の硬式野球部がある中高一貫の私立の女子校に進学し、本格的に野球に打ち込む道を選んだ。ところが……。

 先輩、後輩の上下関係が厳しく、理不尽に思えるようなこともあったという。ましてや高校生と中学生が一緒に練習する環境である。たったひとりの中学1年生の新入部員が委縮してしまったとしても無理はなかった。

練習中にボールをぶつけ、鼻骨を骨折。しばらく野球ができなくなったとき、気持ちが切れた。1年生の途中で退学し、地元の公立中学に転校。野球はやめた。

狩野にとって、初めてと言っていい大きな挫折に違いなかったが、野球が好きな活発な女の子には別の一面があった。いわゆる“リケジョ”の顔である。

数学が得意だった。また小、中学生の頃は図工や技術の授業も好きで、歯科技工士の父が感心するぐらい細かい作業やモノづくりが得意な手先の器用さがあった。国立の工業高校である東工大附属科学技術高校に進学し、電気電子分野を学んだ。卒業制作にあたる課題研究では、グループでシンセサイザーを1から作り上げたという。

 自由な校風で知られる同校では、ユニークな授業が多かった。体育もまた学生それぞれが自由なテーマを研究し、レポートする一風変わった形態。狩野が研究テーマに選んだのは野球だった。経験者と初心者のクラスメイト3人で、どうしたらゴロを上手に取れるか、バッティングが向上するか、実地に考察し、研究結果をまとめた。

「勉強も面白かったですけど、やっぱり、野球は楽しいなって」

 推薦で入学が決まった早稲田大学に女子の野球部があることを知り、すぐに入部。5年の空白を経て、思い切り野球に打ち込んだ。が、今度は理工学部の勉強についていけなくなる。野球にも勉強にも全力で向き合ったが、3年生で中退せざるを得なくなった。

苦い思い出になったが、再び芽生えてきた思いが残った。

「できることなら野球を続けたかったし、スポーツ選手になりたかったんだよなって」

競艇からボクシングに導いた出会い

 中学生のとき、鼻の骨折や成長痛のケアなどに通っていた整体の先生から、競艇選手を勧められたことがあったのを思い出した。当時はまだ「キョウテイって、何?」とピンとこなかったが、知れば知るほど、「私にぴったりじゃん!」と思えた。

「プロスポーツ選手だし、競艇って、モーターとか、プロペラを自分で調整するんですよ。工業高校でやってきたことや手先の器用さも活かせるし、(養成所の入所試験の応募資格に)50kg以下の体重制限があるんですけど、もともと細身だったし」

 心配した両親から「事故で死ぬこともあるんだよ」と諭されても、思わずこう切り返すぐらい決心は固かった。

「自分の好きなことをして死ねるなら、別に死んでもいいよ! って。親としては衝撃的だったかもしれないですけど(苦笑)」

 適性試験の一環でボートに乗ったときも「想像した以上に水面と近くて、めっちゃ速く感じたけど、面白かったですよ。怖さは感じなかったです」とスリルを楽しんだ。

 では、最初にプロボクサーのテストを受験したときは、ボートレーサー養成所受験要項の備考欄にあった《日本ボクシングコミッション公認のA級ライセンス取得者で、日本ランキング5位以上の実績がある者は一部の試験免除》をまだ意識していたという狩野はなぜ、競艇ではなく、ボクシングを選んだのか。

「いちばんデカかったのは、トレーナーとの出会いかな、と思います」

 プロテストの結果は不合格だった。無理もない話で、ジムに勧められるまま、入会からわずか4ヵ月のことだった。ただ、「落ちたからって、あきらめるわけにはいかない」。悔しさとともに負けん気が湧いてきた。手をさしのべたのが草壁岳也トレーナーだった。

「本当はタケヤさんに教えてもらいたいなって、ずっと思っていたんですよ。見ていて、選手のことを思って教えている人だなって、直感的に」

 週2回限定のトレーナーだったはずが、1ヵ月後の2度目のテストに向けて、それから毎日、マンツーマンで教えてくれた。狩野が感じたとおりの「熱が伝わってくる」指導もあって、無事に合格。プロボクサーのライセンスを手にした。

 デビュー戦に向けた練習も週2回、見てくれたが、本格的なコンビ誕生は2戦目から。初陣を飾った直後、岐阜からオファーが届く。準備期間はまたも1ヵ月。「タケヤさんが、チャンスだし、オレが見るから絶対に勝とうと言ってくれて」。初の遠征に加え、相手は6戦のキャリアがあり、階級も上。それでも再び毎日のようにつきっきりで練習を重ね、引き分けに持ち込んだ。

「そこから毎日、教えてくれるようになって、今の体制がスタートしました。勝たせたい気持ちが伝わってくるし、一緒に戦ってくれるし、だからこそ、応えたいって思います」

 信頼関係は対山中の練習にも垣間見えた。サウスポーに対する微妙な位置取りが細部にわたって行き届いたミット打ち。その動きを前後に行うシャドーとサンドバッグ打ちで、狩野がひとりで反復し、しっかり同じ方向を向いていることがひしひしと伝わってきた。

このチャンスを逃しちゃいけない

「オレらはツイてる」。それが2人の“合言葉”のようになっているという。今回もそう。いずれ山中とは対戦すると意識してきたが、場所は関西のつもりが後楽園ホールになった。サウスポーとは3戦目で対戦し、右で2度倒して1ラウンドTKO勝ち。苦手意識はないが、同じ日に試合をする松田恵里(TEAM 10COUNT)から声がかかり、スパーリングも十分に積んできた。

「タケヤさんとやってきたことを試合で出せたら、勝てると思います。負けたときは自分ができなかったとき」

 狩野が何より「ツイてる」と実感していることは、あらためて言うまでもない。コンビを組む前から狩野が草壁トレーナーを見ていたように、草壁トレーナーもまた狩野のことを見ていた。

「とにかく真面目で、熱心で。何とかしてあげたいと思わせるものがあるんです。もっと目立つところに立たせてあげたいし、ボクシングで人生を変えてあげたい」

 人生は選択の連続である。そして、その選択の先で思いがけない道が開けることがあり、その陰には大抵、運命的と思えるような出会いがある。そんな出会いを狩野が引き寄せたのは、これまで選択してきた一つひとつを真面目に、熱心に、全力で生きてきたからこそだろう。その先で“元世界王者の妹”とベルトを争う。

「このチャンスを逃しちゃいけないな、と思っています。女子だし、アトム級だし、KOはないと思われているからこそ、ここで倒して勝ちたい。その気持ちが強いです」

<船橋真二郎>

●ライブ配信情報
 ▷配信プラットフォーム:BOXINGRAISE
 ▷ライブ配信:9月1日(木)17時45分~試合終了時刻まで
 ▷料  金:980円 ※月額会員制
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詳細はこちら

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