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1977年10月15日のライブレポート


SET  LIST
いつかもうすぐ
英数学館に捧げる歌(19のままさ)
君に会うまでは
ひとりぼっちのハイウェイ
木枯らしの季節
遠くへ
雨上がりの街角
路地裏の少年

(1)風邪で最悪のコンディション


青少年センターのライブから3ヵ月後の10月15日。いつもの楽器店の2階で、久々の「マンスリーコンサート」が開かれました。
ホールで1回ライブをやると、さすがに入場料も高くなるよね。ってことで、これまでの300円から、600円に値上がり(それでも安い!)しての開催でした。
地道ではあるけれど、毎回のステージに全力投球する省吾さんの姿勢が、少しずつ地元のファンの心を掴み、観客も徐々に増えていきました。前座で、「飛んでイスタンブール」を歌っていた庄野真代が来るくらいの大物ぶり(?)
その分、一番前に座ることも大変になってきたのですが・・・。この日は、学校の中間試験の前日ということもあって、わたしもかなりハラハラ。そして、省吾さんもレコーディングの無理がたたって、風邪気味のライブになりました。

「じゃあ、柏村武昭のように、立って喋ろうかな?ディスクジョッキー風に・・・」

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3曲を歌い終えたところで、突然ギターを置いて立ちながら喋り始めた省吾。歌を聴いてても、鼻声で、かなり苦しそうな感じがしたのですが、さすがに歌うのが辛かったのでしょう。ライブではめずらしく、新曲の披露ということで、11月21日に発売になる「木枯らしの季節/ひとりぼっちのハイウェイ」のテープを説明つきで流すことになりました。

(2)A面に出来なかった曲


「えーっとですね・・・、『ひとりぼっちのハイウェイ』っていう曲をまず聴いてもらうんだけど、これはですねぇ、高中くんがね、アレンジしてくれたんですね。サディスティックスのね・・・。んで、このイントロがね、なんと矢沢永吉の『リバプール特急』と一緒なのよね。(笑)じつはね、この曲をまず、一番初めに、リズム隊っていうのを入れたのは去年でね、矢沢永吉のライブを録る前でね、高中くんが、僕の曲のために『チャンチャカツッチャンチャ・・・』っていうのをアレンジしてきてくれたのね。ところが、彼が日比谷野音で、矢沢永吉のバックをするときにね、どさくさにまぎれてそのフレーズを使ったんですね。そうすると、それがライブレコーディングになってねぇ~僕のイントロと一緒になっちゃったわけ。で、僕はその曲をシングルに出せなくなって、結局今回のB面に入れるんですが・・・。ミュージシャンはね、男の子はすごいよく知ってると思うけど、ギターは高中くんで、ベースが後藤次利、キーボードが今井・・・。ドラムが高橋君(ユキヒロ)サディスティックスのメンバーね、でる?OKかな?じゃあ、『ひとりぼっちのハイウェイ』曲スタート・・・♪」

歌うことが出来ないのを、とっても申し訳なく思っているのか、新曲のテープを流す間中、こうしていろんなエピソードを説明したり、立ったりステージに腰掛けてできるだけ近づいてくれたりと、ほんとうに一生懸命でした。歌ってるよりも、喋ってるほうが、のどがガラガラで、ヴィックスを舐めながら 必死という感じでした。

(3)「雨上がりの街角」秘話


「つい先日、僕の友だちが女の子を妊娠させましてね・・・」
「遠くへ」を歌い終わったあと、チューニングをしながら、いきなりショッキングな話をはじめた省吾。
「え~,町支くんじゃないですけどね(笑)、青山くんでもないですけど・・・。急に早口で言ったりしてね、そういうことは・・・。困ったことでね、お金を貸してくれってきたわけなんですけど・・・。まあ、ね、君たちもこうすぐって感じですが・・・。そういう事態に陥るときが・・・。(中略)とにかくほら、男の子と女の子が一緒に暮らすと、まぁ、そういうこともあるわけね。僕は、それはすごいよくある話だし、歌になるんじゃないかと思って、二人に、こんな歌を作ってあげたわけなんですが・・・。これを歌うと決まって、東京のほうでは、“それ、おまえの事だろ?”って、言われるんで・・・。芸能界はスキャンダルが大変で・・(大爆)絶えないとこなので、僕もそーゆーところで、週刊誌なんか載りたくないので・・・。実は、どーゆんでもいいから、載りたいんだけど(会場大笑)」

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普段に比べると、曲数は少なめ。でも、その分、できるだけ長い曲を選んで、力を振り絞って歌ってくれました。「遠くへ」も「路地裏の少年」も、フルコーラス。
最後の「路地裏の少年」は、高音が出ずに、声を絞り出すように、苦しそうに歌い続け、歌い終わったあと、「ありがとう。ありがとう。ごめん・・・」と言って、アンコールもなく、ライブを終えたのでした。ファンにもその辛さがわかってたから、アンコールの拍手もなく、ステージを去る省吾を、“頑張れ!”っていう眼差しで、見送っていました。

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(4)BACK STAGE REPORT 「また ノートの切れ端なんですけど・・・」


そんな、バッドコンディションなのに、ほんとにあつかましいなと思ったんですけど、ライブが終って、いつもの2階で、二人が降りてくるのを待っていました。
少し長めに休憩を取ったみたいで、幾分顔色も戻ってた省吾に、またノートを広げてサインを求めると、「恵子さんだったね」と言って、ちゃんと名前を入れて、サインしてくださったのでした。

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(5)そして・・・郵便貯金ホールのライブ(1977年11月28日)



風邪をおして出演したライブで、「ほんとに申し訳ないと思ってるよ。でも、来月はなんせ、郵便貯金ホールですから、11月28日ですが・・・。僕は、入場料を1000円以上取るのは、これが初めてでして・・・ジャンジャン(渋谷)なんかは、300円でやってましたからね(笑)。こっちから、お金をあげてきてもらってもいいくらいなんだけど、そしてると、僕、ほら、生きていけないから、、、(笑)いいバンドをつれてきますから、またそのときにお会いしましょう。」
そう言いながら意気込んでいた、初めての大きなホールでのライブだったのですが、観客は、郵便貯金ホールの1階の半分くらいしか入りませんでした。私たちから見ても、“なんでぇ~~?”ってくらい、寂しい収容人員。

きっと、浜田省吾もガッカリだったんじゃないかな?いくら、地元で着実に人気を上げてきたとはいえ、プロとして認められるには厳しいものがあるんだな~と、そのとき感じたのを今でも覚えています。
しかし、ライブの内容は、観客の少なさに反比例して、盛り上がったすばらしいものでした。さすがに、テープデッキもカメラも持ち込み禁止だって、何をどんな順番で歌ったかは覚えていませんが、前から8番目くらいのところで、熱いステージに釘付けになったのは覚えています。

このとき、ちょっとしたハプニングがありました。
実は、当時、クラスメイトの中にアメリカからの留学生が2名いたのです。ひとりは、同じ寮で一緒に生活をしてたのですが、私が休憩時間になると、ギターを弾きながら省吾の歌を歌っていたら、いたく感動して、一緒にこのライブを見に行ったのです。
もし、可能だったら、アメリカ人のファンもいるよってところを省吾さんに伝えたくて、花束を持参して・・・。そして、彼女たち二人は、警備が厳しい中をかいくぐって、ステージまで走りより、見事花束を渡して握手が出来たのでした。
省吾も、このハプニングには、とっても感動したらしく「世界的に、有名になったなぁ~~」なんて大喜びでした。


こうして、8ヶ月にわたって、6回開催された「KAWAI MONTHLY CONCERT」は幕を閉じました。ほんとうに、徐々にではありますが、歌を聴く人々の心を掴みながら・・・。

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