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学園祭ライブレポート1978.11.12

『大盛況だった地元女子大での学園祭ライブ』
~浜田省吾_自らの学生時代を大いに語る~


いよいよ、私の青春時代の最後のレポートです。
1977年11月28日の郵便貯金ホールで惨敗した省吾は、めげずに翌年4月にも同じ場所でライブを開いています。9月にサイン会を行なった数日後にも、広島公会堂でライブを行ないました。
チケットが取れなかったのか、すでに曲調が変わりつつある省吾に魅力を感じなくなったのか、わたしはこの2つのライブのどちらにも行っていません。
そして、広島で最後に行ったライブが、学園祭ライブだったのでした。
私はこの大学の付属高校に在学していました。KAWAIマンスリーコンサートには、私以上に熱狂的な省吾ファンの先輩たちが着ていて(その人たちの口利きで、楽屋にもおじゃまできたのですが)先輩たちは、そのままこの大学に入学しました。

地元広島というだけでは、知名度も今ひとつだった彼ですが、私の通っていた高校、大学では、浜田省吾の名前は超有名!だったと思いますよ。
私が住んでいた寮でも、私が休憩時間になると部屋でギターを弾きながら毎日「路地裏の少年」や「愛のかけひき」を歌っていまたから・・(笑)。「ムネマサといえば、浜田省吾=『路地裏の少年』よね(笑)」と、今でも言われるくらいです。
ですから、大学の学園祭に浜田省吾をぜひ、呼ぼう!という企画は、当時としては自然な流れだったような気がします。この年、広島の大学で彼を呼んだ大学は、ここの大学だけでした。
ライブには、前座として 小林 倫博という人も来ていました。地味な人でしたが、いい歌を歌っていたような気がします。

当時のチケット_入場料は600円(笑)!


ライブ中継を再現

前座のアーティストの演奏が終ったあと、場内アナウンスと共にいよいよ登場!しかし、その恰好をみて皆は失笑。ジーンズにワークシャツはよかったんですが、頭には、シルクハットみたいな黒い帽子。
思わず皆で、「趣味悪い~~~~!」とヤジってしまいした。
でも、演奏が始まると、みんな拍手と共に、その歌に引き込まれていきました。

ライブは、おなじみ町支寛治とのアコギライブ。でも、今では、絶対に聴けないラインナップでした。そう、今では聴くことの出来ないあの曲「木枯らしの季節」を熱唱したのでした。

この曲、アコギ2本で演奏されると、ほんとに素晴らしいのです。町支くんのギター演奏が凄くいい!って言った方がいいのかもしれないけど、アコギ2本のアレンジは、最高でした。

主催者側の予算や環境(大体、オカタイ大学だったので)の関係だったのか、省吾自身は、バンドライブをやりたかったようでしたが、それが叶わず、町支くんと2人でのライブになってしまい、残念そうでした。

でも、そのぶん、一生懸命私たちに、いろんなエピソードを、曲が終わるたびに話してくれるのでした。会場は予想通りの超満員!大盛況のライブ。省吾自身、「だいたい、広島公会堂でやっても、これくらいいっぱい入らないんですが・・・」って大喜びでした。ここから、当時のMCをご紹介します。

1.愛のかけひき
「どうもありがとう。今日は女学院!憧れの・・・高校時代からずっと憧れてた・・憧れつづけた、この制服と・・・中流階級の(爆笑)何ともいえない初々しさを持った女生徒の巣窟である(爆)・・・どうありがとう!呼んでくれて!寒くないかい?寒い人は、隣にいる男性に寄りかかって、女の子同士だったらちょっと気持ち悪いですが・・・(笑)、恋人のいる人はこんな感じで…(町支さんに抱きつく)・・・寒い日にピッタリの曲をやります。

2.木枯らしの季節
昔ね、僕のいたバンド「愛奴」っていうバンドがここに来たらしいんですよね。その時はもう僕が抜けてて、ほんと女学院は今日が初めてで・・・ずーっと楽しみにしてたんだよね。でもね、今、学園祭ってすごいたくさんやってるんですよね。なんか某週刊誌によると、出演回数が、世界第3位だと(笑)・・まあね、アメリカの方に学園祭ってないもんなぁ~~(爆)。だから、日本でも沢山でてるんだけど・・・。

僕自身はね、学園祭っていうのは、1回しか経験してないのね。と言うか1年も行かず、辞めてしまったから、学園祭の経験って1回しかなくてね、その学園祭というと、いつも思い出すことは、当時バンドに入ってて、神奈川大学っていうとこなんですけどね。「イーグルス」っていうバンドがあったのね(笑)。当時先輩がこの名前をつけて、「なーんていうイモな名前をつけるんじゃろう」って思ったけど、今考えると、とてつもないデカイ名前なのよね。
それで、そのイーグルスって言うバンドがね、どーゆーわけかビートルズの曲をやっててね(爆笑)わけわかんないんですが・・・。ダンスパーティーがあるわけですよ。学園祭でね。ダンスパーティっていうのが、横浜の山下公園に船が泊まってて氷川丸っていう、オンボロの客船なんだけど、ロビーって言うのかな?フロアみたいになってて、そこでダンスパーティーをやるんだけど、そこでギターを持ってね・・・。

当時僕は、リードギタリストでしたからね。今は町支くんにその座を奪われてしまったけど(爆)・・歌って、ほとんどダンスミュージックだったから、演奏なんですね。その間僕は全くやることがないので、女の子をチラッチラッと物色するわけですよね。フェリス女学院とか、鶴見女子短大とか、向こうにもいろいろあるんですよ・・同じようなのが・・・。
それで、女の子と知り合ってね。当時僕は、まだ19歳だったから・・・「今夜どう?」なんていう、くどき文句は全然知らずにね、せめて、せいぜい言ったのが・・・「家まで送っていきます」(大爆笑)

それで、ダンスパーティーが終ったあと、楽器をトラックに積んで、僕は「じゃあね~~センパイ!」なんて言いながら、その女の子を家まで送っていくんですね。
その子はね、寮に住んでたのね。この中にもいるでしょ?門限9時半って言うやつ。んで、もう間に合わないっていうんで・・・でも、僕としてはね、今夜僕の汚い下宿に来ないか?って言いたかったんですけど(笑)、でも、すごくウブだから・・・とうとう寮についてしまって・・・。キスしたいわけよ、すごい(笑)・・・ね、この新鮮な、この男の直線的な欲望がね(笑)・・・爆発しそうになるんですね。その頃は、キスだけでよかったんですね(大爆笑)
まあね、それで、キスしようといいたいんだけど、ドキドキしちゃって、言葉が出てこないわけよ。ステージでもこんなにアガらないっていうほど、ドキドキしちゃってね・・・で、ついに僕の言った言葉が・・、「月がきれいですね」(大爆笑)
その日はね、今日とやっぱり同じように、小雨が降ってたわけよ(爆笑)。俺が月だと思ったのは、なんと、水銀灯の灯りだったのよ(爆笑)。それでね、「あ~~~横浜の水銀灯って、明るいんですねぇ~~!」って帰ったのを覚えていますが・・・(笑)。
それが僕の、唯一、1回だけの学園祭の思い出なんです。だから、今日なんか、いい思い出ができるんではないかと、町支くんと期待してるんだけど、お父さんが待ってるんで、家に帰ります!

3.君に会うまでは
僕も、そーゆう純情なときが、会ったんですよね、し~~ん(笑)。
今日はね、ちょっとみんなに、心の中で、
申し訳ないって思ってるんですよ。というのがね、最近もう、ずっとバンドといっしょにやってて、今日もね、バンドと一緒に来るはずで、もう最後はギンギンのダンスパーティーにしようと思って、リハーサルから何からバッチリやってきたのにね・・・。
別に、女学院が貧しいっていうわけではないんだけど、経費の問題で、バンドがこれなくなっちゃって、決して自治会が悪いのではないのだけど、決して「夢番地」っていうプロモーターが悪いのではないんだけど(笑)、そういうわけで、今日は、町支くんと二人で広島県人会で、頑張ります。だから、その分みんなが助けてください!

4.19のままさ
5.君の微笑み

(この曲の演奏の前のMCです)次の曲は僕がまだ、吉田拓郎・・・大先生(爆)のバッキングでドラムを叩いてる頃・・・・・・・、大体最近話はころっと変わりますが(爆)、世良公則といい矢沢永吉といい、吉田拓郎といい、どうして広島県人というのは、あんなにどこへいっても、デカイ顔をするのであろう?(爆笑と拍手)非常に、僕も・・・いずれ参加しようと思ってるんですけど(爆)拓郎に至っては、ほんとに、顔までデカくなっちゃって(爆)美代子ちゃんの料理が美味しいのかどうか(笑)。
その、拓郎くんのバックでドラムを叩いてる頃、それから愛奴でドラムを叩いてる頃、「生まれたところを遠くはなれて」というアルバムを出してた頃、非常に生活が苦しくて、今のように、「子どもが出来た」っていうような、スキャンダルじゃなくて、たまには週間平凡に載って見たいもんだと・・・。
また、話はコロッと変わるんですが、ウチの事務所ってホリプロダクションっていうんですけど、僕は直接入ってないんだけど・・・僕はだいたい事務所の女の子は全部嫌いでして、山口百恵、和田アキ子、森 昌子、片平なぎさ、どれも、ゾーッとするような人たちばかりで・…。
こんど、その和田アキ子さんが、必殺シリーズってあるでしょテレビで?その裏殺しっていうのに出るんですね。そのテーマソングを僕は作りまして、ほんとに・・「和田アキ子のテーマ」っていうんだけど(大爆笑)・・。今度テレビで見といて。12月の8日ぐらいから放送されるらしいんだけど…。時代劇なのに「う~~~ベイビィ~~♪」っていうまるでディスコみたいな音楽作っちゃったんですけど・・・そういうことがあるんで、やっと、やっとね、最近、新幹線の指定席で広島に来れるようになりました。この歌は、2枚目のアルバムに入れています。まだ、とっても苦しかった頃の歌です。

6.いつかもうすぐ
7.片想い

会場は、ごくごく普通の講堂_だったんですが、アコギ2本の音色と、省吾の歌声が響き渡って、とってもいい雰囲気でした。この曲の時は、町支さんのリードギターの音色がほんとにきれいでした。(最初、チューニングがあってなくて、演奏をやり直したんですが…)


僕は、この季節っていうと・・・昨日ね、京都にいってきたんですよ、京都のライブハウス(京都CIRCUS&CIRCUSのこと)でライブをやってきたんだけど・・・、決まって京都を思い出すんですよ。
大竹にいたときに、家出したんですよ。18の時に…(笑)。それがちょうどこの頃の季節で、僕は京都に行ったんですね。
当時、僕は全く世の中の事を知らない、ウブな路地裏の少年でしたから(爆)・・・・お金を4万円持っていけば、足りるだろうと・・・(笑)家を借りて・・・(場内爆笑)、それでね、4万円持っていけば家が借りれるだろうと・・・それから予備校のお金を払ってとかね・・・4万円持ってよ!(爆)京都に行ってね、京都の友達のところに居候させてもらったわけよ。上賀茂っていうところに、そいつののアパートがあって、そいつのところを一応ネジロにして、それからウチを探そうと・・・。いつも隣の奴の自転車をかっぱらってきては、京都の市内を走るわけですが・・・。
ウチを借りるとなると、礼金、敷金、不動産斡旋料とか、そういうのがいるっていうのをはじめて知って、それだけでも、10万近くいるんですね。それで、とうとうバイトなんかを探してたんだけど、居候の奴のところに、1週間居、2週間居てるとね、その・・・男って白状なんだぜ~~(笑)。
高校のとき、すっごい仲がいい奴だったんだけど、京都に行ったら、平安女学院っていってね、広島女学院とよく似てますが、女の子と、同棲してたわけね。そこへ俺が転がり込んじゃったもんだから・・・・。最初の1週間ぐらいはね「よくきたなぁ~~~!」って言う感じだったんだけどね・・・。だんだんと、二人の目つきが険しくなるわけですよね。
で、夜、4畳半に3人寝るわけですよね。そうすると、俺の友達って、その女の子にね、「大丈夫だよ。もう寝てるよ・・・」というわけなんですよ(爆笑)。で、僕はそんなこと聞かされたら寝れるわけなくて・・・当時僕は、女の子を知ったか知らないかという、まだ微妙な年頃だったわけね。「ハァハァ~~」って言う感じで・・・(爆)やってるわけね。
で、とうとう二人の目つきって言うか、怒りというか、欲求不満というか・・だんだん険しくなって、居たたまれなくなって大阪の方へいって、名古屋へ行って、横浜へ行って、とうとう大風邪をひいて、肺炎みたいになって、「おとうちゃん、帰ってきました」って・・・(爆)
それで、このまえテレビを見てたら、「家出少年に呼びかける」みたいなのをやっててね、「出てくるなよ!出てくるなよ!」ってね僕が(爆)成し遂げられなかった家出を、なんとか少年に託してるのよ。TVの人は、「〇〇くん、すぐ電話しなさい!」って言ってるんだけど、僕だけは「電話するな絶対に!」(爆)って思いながらテレビ見てました。
このときは、笑って学生時代の省吾の話を聴いていたんですが、その私が京都に、それも上賀茂で独り暮らしをするなんて、その時は思ってもいませんでした。
まだ、高校を卒業して、どこの大学で何を勉強したいのかもぼんやりとしか決まっていなかった私にとって、彼の学生時代の話は、刺激的で憧れでもありました。
あ・・・たったひとつ、「6年間女の園に漬かってたんだから、次の4年間は、絶対共学よね」っていうのは、この時、気持ちがバシッと固まりました。(笑)結果、どんな出会いがあったかというのは、別にして・・・(笑)。

8.路地裏の少年
最後の曲になってしまった。今日はどうもありがとう。また、来年でも再来年でも、君たちが卒業して、君たちの子どもがこの大学に入っても、呼んでくれれば、俺たちは来ます!

9.ラストダンス
EN1.あばずれセブンティーン
EN2.こんな気持ちのまま

約1時間半_こんなに盛り上がったことはないんじゃないかな?っていうくらい、会場も、ステージの二人もひとつになった思い出のライブ。あの頃のテープを聴いていると、あの時の感動が甦ってきます。
最初に浜田省吾を見たのが、広島大学の学園祭。そして広島を離れる前に見たのも女学院大学という学園祭のライブです。実は、私の学園祭の思い出というのは、実は、この2つしかありません。
当時、大学の学園祭に、アーティストを呼ぶのは、ひとつの流行でした。どこの大学が、どんなアーティストを呼ぶか_?アーティストの知名度が、大学の知名度を物語っているような感じでした。そして、それが、だんだんと、エスカレートして、ひとつのビジネスになっていったような気がします。


わたしは、翌年、京都産業大学に合格し、憧れていた女子大生になりました。でも、自分の通っていた大学の学園祭には、とうとう1度も行きませんでした。ユーミン、堀内孝雄、そして浜田省吾も、学園祭でライブをやりました、でも、わたしは、学園祭なのか、ライブなのかわからないような内容に、すっかり冷めてしまっていました。
小さくても、少人数でも、本当に好きな人が集まって、音楽を心行くまで楽しむ_私にとって、それが今も変わらない「ライブ」のイメージです。そういう時間を、わずかでも持てたことを、これからも私の宝物として、大切に心の奥に閉まっておきたいと思っています。

とりとめもなく語った思い出話に触れてくださって、ほんとうにありがとうございました。

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