「死臭」第1話

その少年は死の直前に発せられる匂い「死臭」を感じ取ることができる。
ある日、不登校のクラスメイトの少女から強烈な死臭がした。
急病か? 事故か?
少女の死を食い止めるために少年は少女の後を追う。
辿り着いたのは、屋上。
少女は強烈な死臭を漂わせ、安全柵の向こう側に居た。


 
青い空の下、白い半袖Yシャツに身を包み中学校の校門をくぐる。
 六月の上旬。衣替えの期間。今日は暑くなると天気予報で言っていたからか、昨日に比べて白い夏服を着ている人が圧倒的に増えた。見渡す限り、黒い冬服を着ている人は見当たらない。僕、花木通は皆が半袖になって心なしか解放感を包まれている光景が好きだった。夏がすぐそこまで近づいてきている感じが好きだった。
 三階にある教室に向かっている途中、廊下の向こう側から歩いてくる国語教師の杉松先生に声をかけられた。
「おお、通。おはよう」
「おはようございます」
 挨拶をして教室に向かおうとしたが、杉松先生は話を続けた。
「先生、通にお礼がしたくてな。通、この前唐突に『先生は最近健康診断に行きましたか。この前、近所の人が健康診断で病気を早期発見できて助かったらしいので、先生も早く行った方がいいですよ』って健康診断を勧めてきただろう。確かになあ、と思ってこの前行ったんだけどな、そしたら本当に病気が見つかってなあ。早期発見だったから大事にはならなかったが。通のおかげだなと思ってな。ありがとな」
「いえいえ、僕は何もしてないですよ。それにしても病気の早期発見ができてよかったですね」
「ああ、本当に良かったよ。とにかく、ありがとな」
 杉松先生は歩き始めたので、僕も教室へと向かった。数歩行ったところで杉松先生は振り返り、再び僕に声をかけた。
「ところで、あの時なんで急に健康診断の話なんかしたんだ?」
 杉松先生の疑問に僕はこう答えた。
「なんとなくですよ」

 僕にはこれから死ぬ人間から発せられる匂い『死臭』が分かる。腐った食べ物の匂いというか、なんというか嫌な匂い、生理的に受け付けない匂いだ。そして、これから取返しのつかない不吉なことが起こることを予感させるような匂いだ。
 その匂いを初めて嗅いだのは幼稚園生の時だ。当時はお父さん、お母さんの他におばあちゃんと犬のシロと一緒に住んでいた。何事もなく、平穏無事に楽しい日々を過ごしていた。そんなある日、とてつもなく嫌な匂いが家に充満していた。僕はお父さん、お母さんに変な匂いがすると主張したが二人には匂わないようだった。人間より遥かに鼻の良い犬のシロでさえ無反応だった。最後の助けとしておばあちゃんの部屋に走った。おばあちゃんの部屋の襖を開けた。瞬間、より濃い匂いが鼻の奥をついた。「どうしたんだい」といつもと変わらぬ笑顔で迎えてくれたおばあちゃんがその匂いの発生源だった。僕はどうにかしておばあちゃんの匂いを取ろうとした。おばあちゃんと一緒にお風呂に入って体を洗ってあげても駄目、消臭剤を吹きかけても駄目。僕はこの匂いを消さないと何か嫌なことが起こるという直感があった。が、どうしようできない自分の無力感に泣いた。それから日に日におばあちゃんの匂いは強くなっていった。そしてその匂いがピークになった日、おばあちゃんは死んだ。同時に例の嫌な匂いも何事もなかったかのように消えた。詳しいことは教えてくれなかったし、分からなかったけれど病気だったらしい。この時、僕は死臭を理解した。
 それから僕は死臭を感じるとその人に病院に行くように勧めている。杉松先生もそうだ。すれ違った時、微かに死臭がした。だから、多少強引な会話をしてでも病院に行くように勧めた。微かな匂いの時に手を打てばまだ助かることがあるのだ。

 チャイムが鳴った。ホームルームが始まる。おしゃべりしていたクラスメイトが名残惜しそうにおしゃべりをやめて、それぞれの席に戻る。静かになり始めた教室の後ろの扉が開いた。クラスメイトの視線が一斉にそちらに注がれる。
 そこに立っていたのは冬服を着ていた一人の女子生徒だった。黒。僕はまずそう思った。黒の長髪、黒い冬服、厚手の黒タイツ。その黒はまるで何かから身を守るようだった。
名前は確か、水無里奈。彼女はあんまり学校に来ない。彼女を見かけたのは今年、二年生になった時の始業式。それ以来見かけた記憶はない。何が原因なのか、一年の時はどうだったのかは知らない。
 水無さんはクラスメイトたちからの視線から逃れるためか、顔を伏せて自分の席に行き、そのまま座った。席に座ってからも顔を伏せたまま微動だにしない。
 普段いないクラスメイトの急な出現に教室に異質な空気が流れる。もちろん、水無さんに話しかけようとするクラスメイトもいない。
 それから先生がやってきた。先生はいつもと何も変わらぬ様子で出席を取り始めた。阿部、石田、尾崎とクラスメイトの名前が呼ばれていく。久田、星野。クラス全体の緊張が高まる。前園、松山ときた。
「水無」
 先生は他の生徒と変わらぬ声で名前を呼ぶ。クラスの緊張がピークに達しているのが分かる。クラス中の視線が彼女、水無里奈に注がれる。
「はい」
 彼女が返事をした。今にも消え入りそうな、儚い、小さな声で。
 それから出席確認は滞りなく終わった。先生から水無さんに関して何かコメントがあるわけでもなく、普段通りの連絡事項が共有されてホームルームは終わった。教室から出て行く先生と入れ替わるように一時間目の教科の先生が教壇に立つ。
 その先生は水無さんを見て少し驚きの表情を見せたが、それ以外の反応は示さなかった。他の先生もほとんど同じ反応だった。普段、席順で生徒を当てる先生も今日は水無さんがいる窓際の席が当たらないように席を選んでいた。廊下側の一番後ろの席の僕は少しだけ窓際の席が羨ましいと思った。
 水無さん本人は、ただその席にいるだけだった。授業中に手を挙げて発表するということももちろんない。休み時間もその席から基本的に動かなかった。朝と同じように、顔を伏せたまま。クラスメイトの中には話しかけた人もいたが、水無さんは必要最低限の返答しかしなかった。その反応を見て、彼女に話しかけるクラスメイトはいなくなった。

 放課後になった。帰りのホームルームが終わると、水無さんは素早く荷物をまとめて、おしゃべりしている人たち、部活の準備をしている人たちの間をすり抜けるようにして教室から出て行った。
 隣の席の子と話しながら帰り支度をしている僕の横を水無さんは足早に通っていった。彼女が通った後の空気に僕は顔をしかめる。あの匂いが。してはいけない匂いがした。
 僕は「先生に呼ばれてたの忘れてた」と言って隣の席の子との会話を切り上げ、まとめかけの荷物をそのままに、教室を飛び出した。廊下には帰る生徒、部活に向かう生徒でごった返していた。その人混みをかき分け、すり抜けた。そこに水無さんの姿は見当たらなかったが、死臭をたどった。彼女はどうやら上に行ったようだった。上には保健室とか職員室はない。一年生の教室があるだけだ。僕の中で嫌な想像が頭に浮かんだ。僕はその想像を必死に否定しながら階段を駆け上がる。全力階段ダッシュは帰宅部の僕には少しばかりしんどい運動だった。
 死臭は最上階である四階のとある場所に続いていた。四階の普段使われることのない上り階段。その上り階段の先には一つの扉がある。そこに近づけば近づくほど、死臭はどんどん強くなっていった。
 朝、水無さんが教室に入ったときに死臭はしなかった。こんな一日でこんなにも死臭が強くなるなんてことは今までになかった。急性の病気ということも考えられるけど、中学二年生という若さを考えたらその可能性は低い。他にある可能性は不慮の事故、もしくは―。
 僕は肩で息をしながらその扉、屋上へと続く扉を開いた。青い空とクリーム色のタイルが敷き詰められている床。そしてその二つを結びつけるようにしている安全柵。その安全柵の向こう側に彼女、水無里奈はいた。
 そう、他にある可能性は不慮の事故、もしくは―自殺だ。

「な、何やってるの?」
 僕は取り敢えずこう投げかけた。声が上ずっているのが自分でもわかった。
「見てわからない? 今から死ぬの」
「なんで?」
「なんでそんなことをあなたに言わないといけないの? 死にたいから死ぬの。放っておいて」
 風が強く吹いた。さわやかな風だった。水無さんの黒く長い袖がはためく。一瞬見えた彼女の手首には痛々しい傷が幾重にもついていた。
「駄目だよ……」
 僕は呟いた。
「なに?」
「駄目だよ!!」
 今度は大きく、彼女に聞こえるように叫んだ。こんなに大きな声を出したのはいつぶりだろうか。
「死んじゃ駄目なんだ!!」
 僕はずんずんと水無に近づき、彼女の柵を持っている左手の手首を強く、強く握った。
「何があっても、人間は死んじゃいけないんだよ!!!!」
 もう一度僕は叫んだ。
「離してよ!」
「嫌だ! 絶対離さない!!」
 水無さんは僕の手を振りほどこうとする。
「じゃあなに!? 私はこの先こんな地獄みたいな世界で生き続けないといけないの!? この先幸せを感じることよりも圧倒的辛いと感じることが多い世界で生きていかないといけないの!? ふざけないで!! そんなの嫌よ!! 私は今、ここで死んだ方が幸せなの!」
「そんなことないっ!」
「あなたに何がわかるの!?」
「僕が!!」
 僕は水無さんの目を見て言う。
「僕が! 毎日楽しいと思えるようにするよ!!」
 そう言いながら、僕は水無さんの体に手を回す。
「だから、早くこっちに来てよ!!」
 僕は目一杯の力で水無さんの体を持ち上げて、柵のこちら側に持ってきた。僕の体に覆い被さるように彼女の体が倒れ込んでくる。彼女が小柄な女子で良かった。僕でもなんとか体を持ち上げることができた。
 水無さんはすぐに起き上がると、扉の方へ駆け出していった。その後ろ姿に僕は呼びかけた。
「明日! また明日ね!! 待ってるから!! 待ってるからね!!」
僕は精一杯の声で呼び掛けたつもりだったが、もしかしたら水無さんの耳には届いていないのかもしれなかった。彼女は一度もこちらも振り返らないまま、扉の向こうに消えていった。

 翌日、僕はいつもより一時間も早くに学校に着いた。昨日の彼女、水無里奈のことが気になったからだ。昨夜は正直あまり眠れなかった。あの時は自殺を止めることに必至で、言葉を選ぶ余裕がなかった。自分の言った何かの一言が彼女を傷つけてはいないかとか、屋上から走り去った彼女を追いかけるべきだったのではないかとか、家に帰ってからもう一度死のうとしているのではないかとか、そんな想像ばかりしてしまった。そのまま寝付けずに朝日が昇り、じっとしていても悪い想像ばかり働いてしまうため、取り敢えず学校に来たのだ。
 だが、学校に早く来ても、特にやれることはなかった。席に座って勉強をしようとしても彼女のことが頭をよぎる。教室の扉が開くたびに水無さんかもしれないと扉の方を向いてしまう。それを何度も何度も繰り返すうちに予鈴が鳴った。教室の席は埋まっている。水無里奈の席を除いて。
 いつもみたいにただ学校に来てないだけならまだいい。もし、もう帰らぬ人となってしまっていたとしたら……。そして僕の言葉がそれのきっかけになってしまっていたとしたら……。
 うなだれていた僕は扉の開く音を聞いた。先生が来たのかと顔を上げる。前の扉は閉じたままだった。素早く後ろの扉を確認するとそこに水無里奈は立っていた。彼女は静かに自分の席へと向かった。
「おはよう」
 僕の席の傍を通る彼女に声をかけた。
「……おはよう」
 その声は小さかったが、確かに僕の耳に届いた。
「うん、おはよう!!」
 彼女は僕を一瞥すると、早足で自分の席へと向かった。

 休み時間になった。僕は水無さんの席に行き、水無さんに話かけた。読んだ漫画や小説の話、昨日のテレビの話とかなんてことないどうでもいいことを話した。水無さんは最低限の返事しかしなかったけれど、席を立たずに聞いてくれた。
 次の休み時間も始まったと同時に水無さんの席に行った。今度も同じようなくだらない話をした。すぐにチャイムが鳴ったので、「後でね」と言って自分の席に戻る。それを何度も繰り返した。
 できれば放課後も一緒に帰りたかったけれど、彼女は誰よりも早く教室を出て行くので、それは叶わなかった。僕は「また明日」と言うことだけしかできなかった。
 そんな日がしばらく続いたある日のこと。僕は好きな漫画の話をした。昨日アニメ化が発表されたことを興奮気味に話した。今朝、同じ話を友達に話したが、反応はいささか冷めたものだった。まあ、特段趣味が合っているわけでもないから予想はしていたが、ちょっと寂しかった。この興奮を誰かと共有したかった。かと言って、水無さんが良い反応をしてくれるわけでもないんだけど……。
「ねえ」
 水無さんの初めての反応に少し驚いた。
「なに?」
「その漫画ってどのくらいの長さなの?」
 その言葉を聞いた僕の表情は間違いなく喜色満面だったと思う。僕の好きな漫画に興味を持ってくれたことも嬉しかったが、それ以上に自分から話しかけてくれたことが一番嬉しかった。少し、心を開いてくれたのかもしれない。
「えっとね、この前最新十三巻が出たところ」
 嬉しさのあまり早口になってしまっていることが自分でもわかった。
「そうなんだ」
「良かったら、読んでみてよ! あ、そうだ。全巻持ってるから貸すよ!! 明日学校に持ってくるね! とりあえずお試しも兼ねて三巻まで持ってこようか?」
 気が付くと僕が一方的に話を進めていた。水無さんはぽかんとしている。
「ああ、ごめん! なんか勝手に話進めちゃって。もちろん、水無さんが嫌じゃなければの話で……」
「ふふっ」
 水無さんはクスクスと笑っていた。肩を小刻みに震わせながら、口に手をあてて笑っていた。水無さんの笑った顔を初めて見た。
「ありがとう。じゃあ、お願いしてもいい……?」
 僕は即答した。他に選択肢なんてなかった。
「うん! 任せて!」

 その日、僕は紙袋に入れた漫画の九巻から最新の十三巻を通学鞄に忍ばせて教室に入った。いつも三巻ずつだったけど、残りが四巻だけだったから一気に持ってきてしまった。ちょうどこの九巻から現在連載中の盛り上がっている新編に突入するところだから水無さんも更に楽しめるに違いない。来月の8月に最新刊が発売されるから、読んだらすぐに貸そう。
 そんなことを考えながら席に着いた。しばらくすると水無さんも教室に入ってきた。最近は教室に水無さんが入ってきても教室がざわつくことがなくなった。いまでも時々休むことはあるけど、ほとんど学校に来ているから。黒板上の時計を見ると、まだ朝のホームルームまで五分以上の時間がある。僕は紙袋を片手に水無さんに声をかけた。
「おはよう。これ例の漫画」
「おはよう。これ、読んだやつ」
 水無さんはピンク色の可愛らしい紙袋を鞄から出した。僕はそれを受け取り、自分が持ってきた紙袋を渡す。
「ありがとう」
「どう? 面白かった?」
「うん。面白かったよ。八巻のラストシーンなんて特に」
「わかる。クライマックスだよね。あのシーンは燃えるよね。何度も見ちゃうよ」
 それからひとしきり感想を言い合った。まだまだ言いたいことがあったのに、予鈴によって阻まれてしまった。僕が席に戻ろうとすると、呼び止められた。
「あのさ、花木君」
「ん? なに?」
「あのさ、今回ちょっと返すの遅くなっちゃいそうなんだけどいい?」
「ああ、それは全然いいけど、どうしたの?」
「いや、期末テストが近いから……。私しばらく学校に来てなかったから勉強に全然ついて行けてなくて……。ごめんね」
 そうだった。夏休み前の浮足立った学生たちに降りかかる試練、期末テストがもうすぐだ。
「いいよ、全然。勉強は大切だもんね」
 確かに、そうだった。最近は水無さんも授業中に当てられることがでてきたが、そのたび彼女は消え入りそうな、申し訳なさそうな声で「わかりません」と言うのだった。正直に言うと残念な気持ちはあるが、勉強はしょうがない。学生の本分は勉強なのだ。漫画の話なんて、テストが終わった後にいつでも……、いや駄目だ、できない。テストが終わるとそのまますぐに夏休みに突入してしまう。そうなると、話すどころか会うことすらままならなくなってしまう。
 僕の頭にある提案が浮かんだ。が、それを口にすることはできなかった。きっとそれは口にしようとした時に先生が教室に入ってきたからだ。きっとそうだ。

 気づいたら帰りのホームルームも終わっていた。あれから何度も水無さんと話した。いつも通りの話はいつも通りにできるのに、頭に浮かんだ提案は全然口にできなかった。喉につっかえてしまう。頭の片隅にその提案がずっとあって、今日した話もほとんど上の空だった。
「じゃあね」
 水無さんはいつも通りにに素早く荷物をまとめて教室から出て行こうとする。
「うん、また明日」
 僕もいつも通り片手をあげて挨拶をする。水無さんは僕に背を向けて教室から出て行こうとする。気づいたら、僕はあげた片手で水無さんの手を掴んでいた。
「えっ、なに?」
 水無さんが少し怯えたように声色で言う。
「いや、えっと、ごめん……、なんでも……」
 いや、なんでもないわけがない。
「あのさ、もし良かったらなんだけどさ……」
 僕の声色もいつもとは違っていた。
「一緒にさ、勉強会しない?」

 日曜日の午後、僕は町の図書館の扉をくぐった。
「涼しい~」
 まだ七月とはいえ、昼過ぎの屋外は驚異的な暑さを誇っていた。これから八月になり、さらに暑くなると思うと流石に嫌になる。扉が開いた瞬間クーラーによって十分に冷やされた空気に僕は包み込まれた。じんわりとかいた汗が引いていく感じがする。
 最後に図書館に来たのはいつだっただろうか。お母さんに手を引かれて絵本を借りに来ていたけど、多分それ以来か……? こんなに涼しいなら普段から来ようかな……。見慣れない図書館の館内を見回した。
「あれ?」
 新刊コーナーで本を手に取って、熱心に眺めている人がいた。水無さんだ。
「早いね、待った?」
「ううん、私が早く来すぎただけだから」
 そう言って彼女は本を棚に戻す。
 僕が今日図書館に来た理由、それはずばり水無さんと勉強会をするためだ。平日は家の手伝いがあるらしく、時間が取れないため休日の日曜日になったのだ。男たるもの彼女より早く来て待っておくべき、と思って集合時間の十五分前に来たのだが、まさか水無さんが先にいるとは。うん、今度は三十分前に来よう。というか、彼女って! 僕はただ勉強会に来ただけだ!!
「じゃあ、行こうか」
 それから僕たち二人は自習室に入って、並んで座った。僕は勉強道具を広げながら、水無さんに小声で言う。
「わからないところがあったら、いつでも言ってね」
 彼女は小さく頷くと、ノートを広げて教科書に目を落とした。それを見届けてから僕も教科書に目を落とす。が、すぐに隣が気になってちらりと彼女を盗み見た。というか、私服姿の水無さんは初めて見た。薄手の長袖に長ズボン。寒がりなのだろうか、それとも冷え性?   そんなことはどうでもいい。なんというか、新鮮だ。いつもと違う。それに改めて見てみると……。
「なに?」
 彼女が急にこちらを向いた。どうやら視線に気づいたらしい。
「なんでもない」
 と言いながら僕は教科書に目を向けた。水無さんは不思議そうな顔をしてしばらくこちらを見ていたが、ほどなくして再び教科書に集中し始めた。僕はできるだけ早くシャープペンを動かして問題を解いた。静かな自習室で一際うるさい僕の心拍音をかき消すために。

 結局、予定範囲の半分も終わらなかった。理由は明白。ずっと水無さんが気になって勉強どころではなかったのだ。家に帰ったら頑張らないと。
「今日はありがとね。おかげでだいぶ分かってきたかもしれない」
「いやいや、教えることで自分の理解も深まったから、こちらこそありがとうだよ」
 図書館の外に出る。夕方とはいえ夏。むっとした空気に包まれる。
「じゃあ、私はこっちだから。じゃあね、今日はありがとうね」
 僕と水無さんの家の方角を真逆。一緒に帰ることはできない。
「あ、あの!」
 歩を進める水無さんを呼び止めた。言うことも決めないまま。
「あの、えっと……、来週。来週もやらない?」
 テストは木曜と金曜。土日を挟んで月曜と火曜にもあったはずだ。
「えっ」
「いや、ごめん。嫌だったら全然……」
「いいの?」
 水無さんは僕の目の前に来てそう言った。
「だって、私いっぱい質問しちゃって……全然勉強できなかったでしょ?」
「さっきも言ったけど、教えることで自分の理解も深まることにもなるから大丈夫だよ。もっと質問してほしいくらいだよ」
「ほんと? うれしい」
 水無さんは笑ってくれた。
「来週も図書館に来れるようにお母さん説得するね。」
 そう言って、水無さんは駆けて行った。僕も自分の帰り道を歩き始めた。ふと後ろを振り向くと水無さんも振り返っていた。彼女はにこりと笑うと、小さく手を振った。僕は大きく手を振った。
 夕陽が眩しかった。

 一週間後の日曜日。再び僕は水無さんと一緒に図書館の自習室で勉強会をしていた。が、一週間前と違っているのは、水無さんの集中力だ。先週よりも明らかに集中力が欠如している。理由もわかっている。木曜と金曜のテストの手ごたえがなかったのだそうだ。もちろん、水無さんは真面目に頑張って勉強していた。それは先週の勉強会でも学校での様子を見ても明らかだった。ただ、それでも学校に来てなかった間のブランクが大きかった。一週間勉強を頑張ったくらいではその大きな差を埋めきることはできないみたいだ。
 あまりにも進んでいなかったので、声をかけた。
「大丈夫? なにか分らないところあった?」
「もう……何が分らないのかわからない……。どうしよう……」
 水無さんは大きな溜息をつく。
「もう、勉強なんかしても意味なんかないんじゃないかな……」
「そんなことはないよ。意味がないことはない。今やってる一問も絶対に力にはなってる。明日明後日のテストではその力は発揮できないかもしれないけど、その次のテストでは力を発揮できるよ」
「そう……かな……」
 水無さんの表情は晴れなかった。
「じゃあ、楽しいことを考えるのはどう? テスト終わったらあれをするんだ、とか。何か頑張れるご褒美を考えておくんだよ。何かない? テスト終わり、夏休みに楽しみなこととか」
「ないよ」
 水無さんは断言した。
「あるわけない」
 その時の表情は蠟人形のように生気がなく、目は一切の光がない漆黒だった。
「じゃ、じゃあさ」
 僕はまた考えなしに口を開いた。何を言えば良いんだ、そう考える頭にふと思い浮かんだ光景があった。一週間前に図書館で水無さんと会った瞬間のこと。あの時に思ったこと……。
「水無さんって、水族館とか好き?」
「えっ?」
「だって、先週の待ち合わせの時に水族館の本読んでたから興味あるのかなって。だからさ」
 あれ? だからなんだ? 水無さんが水族館好きだとして、だから? だからどうするんだ?
「えっと……」
 わかってる。「だから」という言葉の後に続ける言葉なんて一つしかないんだ。
「だから、その、テストが終わったら……、す、水族館に一緒に……行く?」
 ああ、この自習室暑いぞ! 空調はどうなってるんだ!!
 水無さんは置いていたシャープペンを再び持った。
「わかった。勉強頑張る」
 水無さんはそれから先週以上の集中力をもって問題に取り組んでいた。僕もできる限りサポートした。テスト終わりの水族館を心置きなく気持ちよく楽しんでもらうために、できるだけ高い点数を取らせてあげたい。
 僕たちが図書館から出たときは暗くなり始めていて、いくらか涼しくなっていた。


第2話
https://note.com/preview/n1bd2c91be3bc?prev_access_key=0c0b503c33784034e257c6ccd3bcc10d

第3話
https://note.com/preview/nbd134b661a69?prev_access_key=609b0a1ccb4dcffd39a114cbe740b2e9


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