「死臭」第3話

 夕闇迫る公園のベンチに僕は座っていた。さっきまで小学生くらいの子供たちが楽しそうに走り回っていたが、暗くなるにつれて一人、また一人と帰っていった。今は公園内に僕一人だ。
 手に持っていたスマホのメッセージアプリを開き、水無さんからメッセージが来ていないか確認する。メッセージは来ていない。最後のメッセージは、さっき僕が送った「○○公園で待ってる」だ。既読はついていない。単純にスマホを開いていないのか、通知が来たことに気づいた上で既読をつけていないのか。僕にはわからない。僕にできることは待つだけだ。
 どのくらい待っただろう。もう完全に太陽は沈んでいる。暗い公園を照らすのは一基の街頭のみ。寂しい光だ。数匹の蛾がその周りを飛んでいる。
「花木くん……」
 飛んでいる蛾を見ていた僕は声のした方を振り向く。そこには水無さんが立っていた。
「水無さん……」
 僕はベンチから立ち上がり、頭を下げた。最大限の謝罪、九十度の謝罪だ。
「ちょっと、花木くん」
「ごめん。あの日、水族館で水無さんを困らせて、嫌な気分にさせた」
「いや、そんなこと……」
「それに! その後にすぐに謝ったりせずに、連絡も取らないで……」
「それは私もだから……なんというか、連絡しにくくて……」
 僕はポケットからある物を取り出した。今日、水族館に行って買ってきた物だ。それを水無さんに差し出す。
「これって……、あの」
「ごめん。あの時、すぐに返事ができなくて。なんというか……その、恥ずかしかったんだ。女子とお揃いのキーホルダーが。それに……少しハートっぽく見えるし」
 水無さんは僕の手にあるキーホルダーを改めて見て、顔を赤らめた。
「いやっ、ごめん、それは、その気づいてなくて……」
「いや、いいんだ」
 僕は更にキーホルダーを持った手を水無さんに向ける。
「連絡を取っていない間、気が付いたんだ。どれだけ水無さんが僕にとって大きな存在になっているのかを。だから……」
 水無さんの目を見据えた。大きくて潤んでいて、綺麗なその目を。
「僕と付き合ってほしい」
 僕の耳は、僕の心臓の音に支配された。耳から心臓が出そうだ。変な汗をかいている。顔が赤くなっているのが自分でもわかる。水無さんの一挙手一投足がスローモーションのようだ。口を開いてから言葉を発するまでの時間が永遠に感じられる。
「わ、私なんかで……いいの?」
「水無さんがいいんだ」
 水無さんは僕の手からキーホルダーを受け取った。胸の前でそれを両手で包み込んだ。
「ありがとう。嬉しい」
 水無さんは改めて僕の目を見て言った。
「これからもよろしくね。通」
「!? と、とお……」
「あれ? 通だよね、名前……」
「うん、そうなんだけど、なんで急に……」
「ごめん、嫌だったかな。ごめんね、なんか嬉しすぎてテンションがおかしくなってるのかもしれない……。えっと、その……付き合うことになったんだから、えっと、名前で呼んだ方が良いかな……って……」
 僕は首が千切れんばかりに横に振った。
「嫌じゃない! 嫌じゃない!! ただ、急に呼ばれたからびっくりしただけで……。えっと、り、り……」
 気恥ずかしさから水無さんの顔から逸らした目を再び水無さんの綺麗な顔に戻す。
「り?」
 水無さんは首を傾げる。
「えっと、り……り……」
「り?」
 僕が言おうとしていることを分かっているのか分かっていないのか、その顔を見ても判断できなかった。
「遅いから家まで送るよ!!!」
 僕は水無さんの手を握り、公園から出た。
「そんな、いいよ。大丈夫だよ」
「いいや、送る。送りたいんだ!!」
 今までの僕なら「わかった。気を付けてね」と言って別れていただろう。けど、今日は違う。男らしいところを見せなければ。それとまだ一緒にいたいし……。それにあの場から逃げるように強引に去った手前、なんか引っ込みがつかないってのも少しある。本当に少しだけだけど。
「いや、本当に大丈夫だから。本当に家は……」
「僕が送りたいんだから送らせてよ。こっちでいいの?」
 水無さんは少し迷ったように見えたが、小さく頷いた。僕は更にぎゅっと水無さんの小さな手を握った。水無さんは周りをキョロキョロと見回している。
「こっちで合ってるんだよね」
「うん……。あそこ……」
 水無さんが指さした先には一棟のアパートが建っていた。
 良かった。暗いから迷ったのかと思った。まあ、流石に中学生にもなって地元で迷子にはならないか。じゃあ、なんで周りを気にしてるんだろう……。そうか、知り合いに見られるのが嫌なんだ。そうか、確かにそうだな。僕だってクラスメイトに見られようものなら恥ずかしい。学校で噂になったりしたらどんな顔して教室に居ればいいのかわからない。ましてや、家の近く。親にでも見つかったら最悪だ。けど、男らしさを見せようと握った手を、今更離すわけにはいかない。けど、見られるのは恥ずかしい……。頼む! 誰にも会いませんように!!
 そう思いながら歩いていると、曲がり角で出会い頭に人とぶつかりそうになった。
「わっ! すみません!!」
 ぶつかりそうになった人は大人の人だった。なんというか、僕のお母さんと同じくらいの歳だとは思うけど、僕のお母さんとは雰囲気違う。なんというか、派手だ。夜のお仕事をしてそうなイメージだ。少し怖い人だなと思った反面、知り合いじゃなくて良かったとも思った。
 軽く会釈をして歩こうとしたが、水無さんは立ち止ったままだ。心なしかさっきより手を強く握ってきているような気がする。
「あんた……」
「お、お母さん……」
 水無さんは震える声でそう言った。
「はじめまして。花木通と申します。水無さんとはクラスメイトです」
 僕はとっさに手を放して、そう言って頭を下げた。そんな僕を見る水無さんのお母さんの目はとても冷たいものだった。
「お母さん……、今日は早いんだね……」
 水無さんのその言葉に対する返答はなかった。
 その代わり、水無さんのお母さんの後ろから人影が出てきた。二十代後半くらいのいかにもチャラそうな男だった。
「おお~! 里奈ちゃんじゃん!! 久しぶり!! じゃあ、今夜は一緒に楽しめるね?」
 その見た目通りのチャラい呼びかけに対して、水無さんは俯いたまま答えなかった。
「ちょっとちょっと! 里奈ちゃんに無視されるとお兄さん落ち込んじゃうな~。 いずれは一緒に住むことにもなるかもしれないんだよ? 仲良くしようよ」
 そう言って男は自然な流れで水無さんと肩を組んだ。水無さんは一瞬身を離そうとしたように見えたが、諦めたようにされるがままだった。男は水無さんの耳元で呟いた。
「今夜さ。待ってるから」
 男の手はゆっくりと水無さんの胸元に近づいていく。指が蜘蛛の足のように動いていた。
 この男……! 僕は二人の間に割り込もうと一歩踏み出した時。
「帰るよ!!」
 水無さんのお母さんが声を荒げた。男はゆっくりと水無さんから離れた。水無さんのお母さんはその様子を見届け、男でなく水無さんの方を睨みつけていた。
水無さんたちは歩き出す。僕は立ち止っていた。
「水無さん!!」
 僕の呼びかけにも水無さんは答えなかった。水無さんたちが家の中に入るまで、僕は茫然と立ち尽くしていた。

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