「死臭」最終話

 夜道を一人歩いていた。楽しい気分はすっかり消えた。さっきの光景がずっと頭の中を駆け巡る。どう見ても、うまくいっている仲良し家族のようには見えなかった。どこかがどうしようもなくおかしかった。僕はどうすれば良かった? 自問自答を繰り返す。あの場で僕に何ができた? 僕には何もできなかった。するべきなのかもわからない。家族の問題だ。部外者である僕がそこに踏み込んでいいのか。僕はただの中学生だ。無力な存在だ。そんな僕に何が……。
 そんな考えを止めたのは、スマホの着信音だ。相手は水無さんだった。慌てて電話に出た。
「もしもし! 水無さん、大丈夫!?」
 返事はない。
「水無さん! もしもし!! 水無さん、大丈夫!?」
「……て」
 何か聞こえた気がした。耳がつぶれるほどスマホを押し付ける。誰かが乱暴に襖を開けたと思われる音がした。
「里奈ちゃ~ん。お母さんに怒られてたね。ああ大丈夫だよ。お母さんは怒って外に出て行っちゃった。あれはしばらくは帰ってこないんじゃないかな。本当に、あの女のヒステリックにはお互い苦労させられるね」
 電話の遠くから下卑た男の声が聞こえる。
「やめて……。来ないで……」
 直後ゴトッという音がして、声が遠くなった。スマホを落としたのだろう。さらに強くスマホを耳に当てる。耳にジンジンとした痛みを感じる。
「大丈夫だよ。怖がらないで。身を僕に任せてくれればいいよ。俺が里奈ちゃんを慰めてあげる」
 その吐きそうな声が一歩一歩近づいてきている。
「いや、ちょ、お願い、やめて!!」
 争う物音が耳元でする。その激しい音の中、その消え入りそうな声は驚くほどはっきりと聞こえた。
「助けて」
 自分の中で何かが弾けた音がした。次の瞬間には走り出していた。頭は真っ白だった。何も考えていなかったし、考えることもできなかった。無我夢中で走った。来た道を引き返し、曲がり角を曲がって、水無さんが消えていった家の扉を勢いよく開ける。
「水無さん!!」
 部屋の中に入る。そこには押し倒され、下着姿にされて抵抗している水無さんとそれに覆いかぶさるように襲い掛かっている糞野郎の姿があった。
「お前さっきのガキか。何人様の家に勝手に上がり込んでるんだ?」
「そんなことよりも水無さん、……里奈から離れろ!!」
 僕はそう叫んだが、男はどこ吹く風だった。
「そんなにいきり立って。これだからガキは。お前、こいつに惚れてるのか? そうだろう。惚れてるんだな。そうか、若いっていいね。お兄さん、うらやましいよ。若気の至りでここに乗り込んできて、その上で年上の人間に対して舐めた口をきいて……」
 男がおもむろに立ち上がる。一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。僕は男の目をずっと睨みつける。男は立ち止った。僕から半歩の距離で。僕のことを文字通り見下している。その顔が笑った。
 瞬間、僕の体は宙に浮いた。腹部を思いっきり殴られた。いや蹴られたのかもしれない。どちらにせよ、凄い衝撃に僕の体は浮いた。浮いた体は重力に従いすぐに堅い床に落ちる。腰を打ち付けた。痛みで呼吸ができない。吸えるのに吐けないのか、吐けるのに吸えないのか。立ち上がろうと何とか四つん這いになっている僕めがけて、長い脚が飛んできた。顔に当たった。僕は亀よろしくひっくり返される。今度は床に後頭部を打ち付けた。頭が痺れるような感覚になり、視界がぼやける。次の瞬間には、馬乗りになった男からの拳が僕の顔を捉えていた。どこかの骨が折れる音がした気がする。続けて拳が飛んでくる。何度も、何度も、何度も。僕は両腕で顔を守るようにしたが、そんなのは焼石に水だった。
 僕は体を起こしたり捻ったりしてどうにかこの体勢を変えようと努力した。体が色んな家具に当たり、その上に置かれていたものが僕目掛けて降り注ぐ。何かの陶器の置物が顔のすぐ横に落ちて割れた。鋭い破片が顔に刺さる。僕は飛び散った破片のうち、すぐ近くの大きな破片を掴み取った。そしてその破片を男の首目掛けて刺し込んだ。嫌な感触がした。自分の手のひらが切れたことがわかった。痛い。男の殴る手が止まった。僕は更に深く刺し込み、引き抜いた。男の首から勢いよく血が噴き出す。馬乗りになっている男は首に手を押し当てた。そしてそのまま横に倒れこんだ。
 僕は体を起こし、立ち上がった。体の至る所が痛い。床に転がっている男を見る。首からは大量の血が今も出ていた。つんっとした匂いがした。死臭だ。とても強い死臭だ。僕の視界はぐるりと歪み、回った。倒れる僕を水無さんが支えてくれた。
「通……」
「ごめん、水無さん……。僕……必死で……」
 水無さんは黙って僕を抱きしめた。ぎゅっと強く抱きしめた。痛かった、が、心地良い痛みだった。
「水無さん……電話はどこ……? 警察と救急車に電話しなくちゃ……」
「でも……そんなことをしたら……通が……。私のためにしたことなのに……」
「それは違うよ……。僕が勝手にやってしまったことだよ……。それにまだ今なら助かるかもしれない……」
 僕はそう言いながら見つけた電話の場所まで覚束ない足取りで進む。
 そう、まだ部屋の中には死臭が漂っている。とても強いのでいつ死んでもおかしくないが、死臭がしている間は生きている。僕は倒れている男を一瞥する。こんなに血が出ているのに、まだ死なないなんて……。僕のおばあちゃんはあっけなく死んじゃったのに。どうしてこいつは……。こいつは……。
「通!!」
 大声で我に返り、水無さんの方を見る。水無さんは必至な顔をして僕を指さしている。いや、指が指し示していたのは僕の後ろだった。
「後ろ!!!」
 振り向きざま、僕は誰かに何かで殴られた。ふらつく僕にその誰かは飛び掛かってきて押し倒す。水無さんのお母さんの姿がそこにはあった。
「お前か! お前があの人を殺したのか!!」
 この世のものとは思えない鬼の形相を浮かべた水無さんのお母さんは金切り声を上げて僕の首に手をまわす。水無さんのお母さんの全体重が僕の首にかけられる。
「死ね! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!!!!」
 息ができない僕は押さえつけられている首の手をどうにか外そうとするが、びくともしない。さっき殴れたところから血が止まることなく流出しているのがわかる。
 ああ、僕は死ぬのか。さっきの死臭はあの男のものじゃなかったんだ。もちろん、最初は男のものも含まれていたのだろう。しかし、あの男が死んでからも匂っていたあの強烈な死臭は僕の体から発せられていたものだったのだ。
 今、この瞬間も匂いは強くなっていっている。視界がだんだん黒くなっていく。死の間際に頭に浮かんだのは走馬灯ではなく、水無さんのことだった。はあ、僕は水無さんのことが好きなんだなと改めて思う。
「やめて!!」
 その水無さんの声は死に直面した脳の錯覚ではなかった。その声と同時に水無さんはお母さんに体当たりをした。お母さんは男の死体の方まで飛ばされた。
「あんたのせいよ。何もかも……」
 起き上がりながらお母さんは呟く。
「あんたがいなければ全てがうまくいってた。あんたを身籠ってからよ、全てがおかしくなったのは……」
 お母さんの手には割れた陶器の破片が握りしめられている。握った手から血を滴らせながら一歩一歩水無さんに近づいていく。
「あんたができたから前の男は出ていった。あんたがいたから仕事を辞めざるを得なかった。あんたがいたから生活が苦しかった。あんたがいたからあの人とはうまくいかなかった。あんたがいたからあの人はそこで死んでる」
 お母さんは飛び掛かる。破片を振り上げて。
「あんたなんか生まれてこなければよかったの!!」
 振り下ろされる腕。水無さんは恐怖で動けず、その場で座り込み目を瞑る。そんな二人の間に僕はほぼ無意識のうちに入り込んでいた。
 さくっ。
 その音はさっき聞いた音だった。首に破片を刺した時の音。その音は僕の耳元で聞こえた。アドレナリンってやつのせいか、痛みはあまり感じなかった。僕は自分の首に刺さった破片を抜いた。自分の血が凄い勢いで抜けていくのがわかった。でもそんなことはどうでも良かった。どうせ僕はもう死ぬ。さっき気づいた僕の体から出ている死臭。ずっと消えないどころか、だんだんと強くなってきている。多分お母さんに最初殴られたのが致命傷になったんだと思う。だからこそ、僕が死んでいなくなっても水無さんが変わらずに笑って生きていけるように、僕はこの人を殺さなきゃいけない!!!!!
「うわああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
 自分の喉から発せられたとはとても思えない音を発しながら、抜いた破片をお母さんの首にお見舞いする。破片を抜くとお母さんは糸が切れた操り人形のようにその場に倒れこんだ。
 それを見た瞬間、僕の体から全ての力が抜けて床に倒れこんだ。体の自由はもう利かなかった。
「通!通っ!!」
 近寄ってきた水無さんの顔は涙と鼻水とでぐちゃぐちゃになっていた。そんな彼女も可愛かった。
「お願い……お願いだから……通……。死なないで……」
「ごめんね……それは無理かもしれないな……」
「死んじゃ駄目なんでしょ? 何があっても人間は死んじゃいけないんでしょ……?」
「そんな言葉を水無さんから聞けるなんて……嬉しいよ……」
「通が言ってくれたんだよ。あの日、屋上で。死のうとしている私に……」
 僕の頭にあの日の光景がフラッシュバックする。水無さんのこの世に絶望した顔。吹いた爽やかな風。裾からちらりと見えた手首についた幾重もの傷。
「そうだよ……。何があっても……人間は死んじゃ……いけないんだよ。絶対にね……」
「だったら」
「だから」
 水無さんの言葉を遮った。もう僕に残された時間は少ない。今喋れてるのも奇跡みたいなものだ。
「水無さんは生きて。僕の分も……楽しんでさ」
「やだ……、通がいないと、私」
「水無さ……、いや、里奈」
 里奈を見た。目を。鼻を。口を。全てを。僕が最期に見る光景が里奈で良かった。
「好きだよ」
 すっと僕の意識は消えた。

 その後、どうなったか死んでしまった僕にはわからない。ただ一つ僕は願っている。
 里奈が幸せであることを。

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