「死臭」第2話

「よし、三十分前」
 終業式を終えた夏休み初日。僕はとある駅の改札前に立っていた。
 あの図書館での勉強会を経て、どうにか期末試験は乗り越えた。水無さんは平均点にはどの教科も及ばなかったものの、赤点はギリギリ免れた。
 そして、今日。図書館での勉強会で約束したテスト終わりのご褒美である水族館に二人で行くのだ。
 改札の前に立っているだけなのに、全力疾走直後かのような鼓動をしている。男子と女子が二人きりで水族館って、それはつまりデートでは!? 誘った時は断られたらどうしようと思って緊張したが、いざ行くことになると「デート」という言葉に頭が占領される。友達にそれとなく聞いてみたが、友達曰く「それは百パーセントデートだろ」だそうだ。そういえば、水無さんに貸していた漫画にも主人公とヒロインが水族館デートをしてドギマギしていた展開があった。今日、僕がそれをするのか? まったく想像ができない。いや、そもそも付き合ってないからただ女友達と遊ぶだけでは……。けど女友達と二人で遊ぶってやっぱり……。
 そんなことを考えていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くとそこには水無さんの顔があった。
「おはよ。今日はよろしくね」
 さっきまで考えていたことと相まって、なぜか赤面してしまっていることが自分でわかった。
「い、行こうか」
 つい素っ気ない感じになってしまった。が、水無さんは特に気にしている様子はなかった。
「うん!」

「うわぁぁ!! さかなだ~!!」
 大きな水槽でゆったりと泳ぐさかなたちを見て、水無さんは目を輝かせていた。そして小走りに水槽の前に行き、食い入るように見入っていた。
「そんなに好きだったんだね、さかな」
「うん! だって、すごく自由に、楽しそうに泳いでてさ! 見てるこっちも楽しくなるよ!」
 そうやって楽しそうに話している水無さんを見ているとこっちも楽しい気分になった。
 水無さんは水槽の横にあるさかなの説明を熱心に読んでいる。説明を読んで、そのさかなを大きい水槽の中から探して、と説明と水槽を交互に見ていた。何度も見ていた。全ての説明に目を通したのだろう。水無さんはこちらを向いた。
「ねえ、花木くんは全部見れた?」
 僕は正直、そこまでさかなに興味がある訳ではないので、「さかなだな~」とか「館内は涼しいな~」とか、そういう感想しか出なかったし、なんなら水槽よりも水無さんがあまりにも楽しそうで、新鮮で水無さんの方をよく見てた気がする。けど、まあそれなりの時間水槽を眺めたし、多分全部のさかなは見れただろう。
「うん、見れたよ」
「じゃあ、次のエリアに行こうよ!!」
 水無さんは僕の手を取り、先のエリアに向かい始めた。僕の鼓動は急に早くなった。手汗が出てきて気持ち悪がられないか気が気ではなかった。
 次はトンネル水槽のエリアだった。
「綺麗~!!!」
 水無さんは僕の手を放して、トンネルの真ん中辺りまで駆けて行った。僕はさっきまで繋がれていた手を意味もなく見つめていた。
「見て~! エイがいる!! あ、ウミガメ! ウミガメもいるよ!! 下から見れるよ!!」
 初めて見る水無さんのはしゃいでいる姿とその周りを囲むさかなたち。僕はスマホを構えて写真を一枚撮った。その一枚は水中を舞う乙姫様のようだった。僕は今日来て良かったなと心から思った。
 次はペンギンエリアだった。気持ちよさそうに泳いでいるもの、よちよちと陸地を歩くもの、水のなかへとダイブするもの、数多くのペンギンがそれぞれ自由に行動していた。
「かわいい~」
 一羽一羽の行動を見ていた水無さんの視線がある一羽のペンギンに止まった。そのペンギンは他のペンギンたちとは少し離れたところにポツンと立って、じっと他のペンギンたちを見つめていた。
「あの子……ちょっと前のわたしみたい……」
 水無さんは小さく呟いた。
「次のところに行こっか」
 そう言うと、水無さんはペンギンエリアから離れようとする。僕は水無さんの手を掴んだ。
「待って」
「けど……、わたしあの子のこと見てられない」
「大丈夫。多分、大丈夫だからもう少し見ていよう」
 そのペンギンは一歩踏み出そうとしたように見えた。しかし、その一歩が踏み出されることはなかった。しばらくもじもじとしていたペンギンは、ついに他のペンギンたちを見ようとしなくなった。仲間たちに背を向けてしまった。しかしその時、一羽のペンギンが群れの中から飛び出した。飛び出したペンギンは背を向けたペンギンのところへと駆けていく。そして背を向けたペンギンとじゃれあい始めた。最初、背を向けたペンギンは戸惑っているように見えたが、しばらくすると楽しそうにじゃれあい始めた。一通りじゃれあった二羽のペンギンは一緒に群れの中へと入っていった。
「ね、大丈夫だった!」
 水無さんはこちらを見なかった。
「次行こう」
 顔を伏せたまま水無さんは僕の手を引いて歩き始めた。
 それから僕たちはアナウンスのあったイルカショーを見に行って、その後に水族館内のカフェで軽いごはんを食べた。その後、クラゲコーナーなど館内を一通り周り、最後にお土産ショップにたどり着いた。
 ぬいぐるみやお菓子、Tシャツや雑貨などが所狭しと陳列されていた。その中でもやはりぬいぐるみコーナーに目を惹かれた。イルカやペンギン、カワウソなど可愛らしいぬいぐるみで埋め尽くされていた。水無さんは先ほどまで泳いでいたさかなたちを見ていたのと同じくらい目を輝かせて見ていた。遠慮がちにぬいぐるみに手を伸ばし、手触りを堪能していた。
 僕は水無さんがぬいぐるみに夢中になっている間に、イルカのぬいぐるみを手に取り、ちらりと値札を見て、スッとぬいぐるみを棚に戻した。こんなにぬいぐるみって高いのか。普段ぬいぐるみコーナーに立ち寄ることなんてないから知らなかった。できれば記念に水無さんと一緒のぬいぐるみが欲しかった。せめて、水無さんにプレゼントしたかった。けど、無理だ……。買ったら、ここから家まで歩いて帰らなければならなくなる。いや、逆に考えれば歩けば買ってあげられるのか。そんなことを考えていると水無さんが言った。
「可愛いけどまだ私たちには高いね。高校生になってバイトとかしてお金を貯めてからまた買いに来よう」
「……そうだね」
「あ! あのキーホルダー可愛くない?」
 そう言って駆けていく水無さんの背中を見た。「高校生になって」「また買いに来よう」。その言葉を聞いて、初めて会った時の彼女の姿が思い浮かんだ。あの屋上の光景だ。
「早く! こっち来てよ!! このキーホルダーどうかな?」
 水無さんはイルカのキーホルダーを持っていた。二個入りのものだった。二匹のイルカが体を曲げて向かい合っている。
「二個入りだしさ……良かったらさ、買ってさ、一緒に付けよう……よ」
 水無さんが顔を伏せながら、途切れ途切れの声で言う。
「えっと……」
 僕は即答できなかった。嫌だったわけではない。むしろおそろいのキーホルダーとか嬉しい。けど、そのイルカのキーホルダー……どうみても二匹のシルエットがハートにしか見えない。
 そんなうろたえている僕を見て
「ごめんね、男子はこういうの嫌だよね……」
 手に持っていたイルカのキーホルダーを戻した。
 足早にお土産ショップから出ていく水無さんに対して、僕は声をかけることができなかった。

 その後すぐに帰路についた。あれだけはしゃいでいた水無さんも、お土産ショップで何も買わなかった。帰りも一言も話さなかった。あれだけ楽しかったのが嘘みたいだった。
 あれから三日経った。この三日間連絡も一切取っていない。学校もないので勿論会ってもいない。何度か連絡しようと思った。何度もメッセージを書いた。しかし、送信ボタンが押されることはなかった。通知が来ていないにも関わらず、水無さんからメッセージが届いているのではないかと何度も確認した。勿論届いていなかった。せっかくの晴天だったのに外に出る気が起きなかった。家にいても何もする気が起きなかった。そんな日々を過ごしていくうちにとある不安が浮かんだ。このまま会えなくなったらどうしよう。夏休みという期間で僕と水無さんを繋いでいるものはスマホのメッセージだけだ。メッセージで待ち合わせをしないと会うことすらままならない。もし、このまま夏休み中会わないで、メッセージを送っても無視されて、二学期に水無さんがまた学校に来なくなったら……。
 僕はベッドから飛び起き、カバンを掴み取った。玄関に向かう僕に対してお母さんが台所から声をかけた。
「あんた、今からどこ行くの? もうお昼ごはんできるよ」
 僕は「ごめん、いらない」と返事をして家を飛び出した。家に帰ったらお母さんに怒られるのだろう。けどそんなことはどうでもいい。そんなことよりももっと大切なことをやりに行くんだ。

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