見出し画像

天使とよばれた女

大人になるに連れて、風邪をひかなくなるのはどうしてでしょう。無邪気でわんぱくな少年少女の方がすぐに体調を崩しますよね。
あれは一体どういう理屈でしょうか。

その問いかけは全くと言っていい程に、答えを求めていない事は男にとって明白であった。

私が思うにだ。少年少女の魂は球体だ。
オレンジで血色のいい脳のようなシワを蓄えた魂

それに比べて大人の魂とは平面なんだよ。
薄く伸ばしたチェダーチーズ
所々に穴ぼこが空いてるのが見て取れる

いいかい、大人はその穴ぼこでないがし、」

女は男の口にチーズケーキを押し当てた。
その光景は二人が初対面である喫茶店であっても仲睦まじい恋人同士に見えているのであろう。

男は店内での自分達の見え方を俯瞰し赤面しつつも差し出されたチーズケーキとフォークには従順に対応した。

「私をなんだと思っているのですか。」
女は高尚と不躾の間を突く、不細工な日本語話者である。

「勿論、天使だと思っている。」
男は俯瞰を重ね、発した言葉が恋人同士のソレでまた赤面する。

男に嘘は無かった。
店内で女を認識した際、男は鳥肌が立つのを感じていた。店の奥に座る女は若いとも老いているとも言えない、容姿は満たされている訳ではなく欠けている訳でもない。
片手に本を持ち片手でティースプーンを、回す、
その点だけが男を困惑させた。
女はティースプーンに触れていなかった。
厳密に言えば念力で回していたのだ。
耽美な指先で弧を描くに従う食器は、魔法に魅せられた玩具であった。
男の視線に女が気付くまで差程時はかからなかった。

「私、象を観ると耳鳴りがするんです」
「よしておくれ。僕はその元ネタを知っている」
「私には主人が居ました」
「主人というのは君の旦那さんという事かい」
「そうです。旦那様。素敵な言葉をお使いになるのですね」
「兎とよばれた女」
「付き合うなら最後まで演じきっては如何でしょう」

何とも愛らしい女の発言は男の好きな小説をなぞったセリフ達であった。

<僕は君の主体的な言葉が聴きたい

「私をなんだと思っているのですか」

<勿論、天使さ。初めて君を認識した時から僕の思いは変わらない。

「私のどこが天使ですか」

<君が用を足してペーパーを捨てる所を想像できない
<君が夏空の下で汗ばむ姿を想像できない
<君がバンドミュージックを嗜み踊る姿を想像できない

男は文言を並べた。
不可思議な魔法の呪文の様に、流れるように。

女は泣いた。降るように、流れるように

「天使とは孤独な私ですね」

男は願った

早く消えてくれないか
天使という名の元に。目の前でパッと消えても僕は驚いたりしないから。

女は強い足取りで店を出た。
威厳を保ちながら本をカバンに入れた女の姿は紛うことなき人間であった。
玩具を回す音に似たヒールの足音は、女が示した何よりも主体的に思えた。


女のコーヒー 女のチーズケーキ
その代金を支払う余白に 男は涙した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?