モラルハラスメントの記憶 vol.4
「今度の三連休に一泊で旅行に行こうか」
その言葉に私は心臓が痛くなる。
「いいね」
嬉しそうな声を作って、私は応じた。
私は旅行が苦手だ。
夫婦二人で旅行に行くことは子供が産まれる前からあり、その時は揉めることはなくむしろ楽しくいつも出掛けることができていた。
初めての妊娠の時などは、体調を気遣いながら二人きりの旅行は最後だからと近場に何回か行って思い出作りをした。だから夫は旅行の計画が得意でエスコート上手、色々任せられて安心だなと思ってさえいた。
それが、子供が生まれて、実家への移動の時に車中で泣いてしまっている子供に対し、苛立った様子の夫を見て私はぞっとした。元々物音に敏感で、運転も疲れると常々言っている人なだけに、子供の泣き声はこたえるのだろうというのは瞬時に理解した。私は胎内の音に近いと言われているビニール袋をクシャクシャした時の音を聞かせたり、ぽんぽんとお腹を優しく触ったり、ぬいぐるみを持って話しかけたりして、機嫌を取ったがチャイルドシートが嫌いなのか息子はひたすら泣いていた。
「ほんとに泣き止まないねぇ……」
泣き疲れて眠るまで、私はいつもヒヤヒヤと運転の様子を見守った。どうか速く着かせようと無理な運転をしませんように。焦って駐車して、車に傷がつきませんように。……それによって、夫が怒り狂って、さらに嫌な空気にこの空間がなりませんように。
それから年に二〜三回は「家族のため」ということで夫から提案があり、旅行に行くことがあったが、私にとっては毎回それは苦痛が伴った。
息子五歳、娘二歳の頃……旅行当日、車で三時間ほどの目的地に出発し始めた時のこと。
「……あれ、俺、駐車場の鍵忘れたかも」
うちは立体駐車場で、専用の鍵を挿すと動作するようになっている。その鍵を挿したまま出発してしまったようだ。私は明るく言う。
「急ぐ旅じゃないし、すぐ家に戻ったら回収できるね!」
軽く言ったつもりなのに夫の顔は険しい。あれ?と思っていると不機嫌なオーラが立ち込める。
「放っておいても誰かが引き取って管理人室に届けてくれるだろ。あとで電話しておけばいい訳だし。……大体この辺、簡単に引き返せるような道じゃないんだよ……!」
静かに、しかししっかりと私を責める口調で彼はブツブツと話をしている。私は目の前の一点を見つめたまま止まる。後部座席の子供達には車内の音楽で聞こえてはいない。やってしまった。いつものが始まる。旅の序盤から。こんなに初めからなんて、この先どうしたら。
「今日は荷物が多くて、積み込むのに気を取られるからこんなことになったんだよ……ハァ」
私が全て積み込んだらこんなことにはならなかったと言っているのだろうか。私が手を煩わせたからいけなかったんだろうか。恐ろしくて固まっている間に、車はナビから外れ家の方へと向かっていく。やがて自宅の駐車場に到着したので、ほっと胸を撫で下ろした時に、息子が無邪気に言う。
「あっれ~?おうちに戻って来ちゃったの?出発したのに?」
瞬間、まずい、と思う。このままでは息子がキレられてしまう。プライドの高い夫には子供はからかっているつもりでない言葉でも、からかいに聞こえてしまうのを知っている。瞬間的に私は言葉をひねり出す。
「そう!ちょっと取りにいかなきゃいけないものがあってね」
なるべく明るく、”忘れ物”という言葉を使わないように気を遣う。忘れ物と言って誰がとか何をとかそういう話になるととても困る。夫は無言で鍵を取ってくると車に乗り直し、にこやかに言う「さあ、もう一回出発だ」。子供たちも夫も楽しそうだ。
私はなにか、腑に落ちないけれど。
その後は旅行は順調に進んでいた、パーキングエリアでも、昼食を取ったところでも概ね問題なく、旅館に着いて部屋に入った瞬間、消毒液のような臭いがした。私は気分が悪くなり、子供も咳き込みを定期的にし始めた。
「この部屋、なんか、変な臭いするね……」
私が怪訝な顔をすると夫はみるみる嫌な顔をし始めた。
「俺の選んだ宿が悪いって言うのか」
「そういうことじゃなくて、この部屋がおかしいんじゃないかな」
「他の部屋も埋まってる、変えられないだろ。ここだって子供が動きやすいような部屋を取ったんだ、変わられても困る」
早口でまくしたてるように色々条件を言われ、私は固まる。こんな変な臭いのする部屋で子供も調子が悪そうなのに寝る……。なのに自分は間違ってないと謎の主張をする夫に驚いた。これではフロントに電話をしたら自分がキレられてしまいそうだ。小一時間部屋にいて、子供の咳の回数は増え、私は本当に調子が悪くなりじっとしていると、気にくわなかったのか夫はイラッとした声で言う。
「俺だけまともで、なんかそっちは調子悪そうだね?」
仕方ないから館内を散歩するかと言われ、部屋を出て歩き出すと呼吸が途端に楽になる。やはりあの部屋はおかしいから交換して欲しいな……と思いつつ、長めに散歩をしてから部屋に戻るとその異常な臭いは消えていた。未だにあの臭いは謎だが、客室を消毒した際に十分な換気をしないまま案内をしてしまったとかだったのではないかと思っている。ただ、私にとってはその臭いよりも夫の扱いに何倍も傷ついた。
一泊なのでそれとなく旅館で過ごし、朝ゆっくりとして早めに帰宅するかと高速道路を移動していると、娘の顔色がどうも悪い。酔ってしまったのだろうと声掛けしつつ案じているとやはり気持ち悪いと言っている。
「高速でごめんだけど近くで降りれないかな」
「あと少しだからちょっと難しい」
私は高速道路を教習で一回運転したきりくらいなので高速道路で近くの出口から降りるのがそんなに難しいことなのか分からないのでそれに頷くしかできず、娘を励ましていると、間もなくして娘が戻した。
助手席にいる私は高速なのもありあまり身を乗り出すことができず、それでも精一杯出来るかぎりウェットティッシュやタオルなどで覆ってやりながら、エチケット袋用意しとけばよかった、いや小さいからちょっと無理かなどと思いながら娘に申し訳ない思いでいた。あまり今まで戻したことがなかったので準備が疎かだったのは否めない。
「まだ、止まれなそう……だよね」
車は少ししたら高速から降りたので、ほっとした私は娘にもう少し、と伝えたが普通の道になってもなかなか停まってくれない。私からしたらさっとどこでも脇道に停めて欲しい思いだった。
「停められるところが無い」
夫からイラッとした声でそう言われて黙るしかない私は、濡れた服で気持ち悪そうにしている娘を励ました。少しすると、駐車場のあるコンビニで車が停まり、私は急いで娘の世話をした。
それ以来私は車を運転する人に、体調不良の人が乗っていて、車で戻したら……どの位でどういうところに停まれる……?という質問を必ずするようになってしまった。
旅行は私には楽しい思い出よりも、トラウマが増えていくような出来事が多く、支度を全部一人でやることも含めて大変なプレッシャーの連続だった。子供には楽しい思い出を、夫には安定したメンタルを提供する、そういう役割を全うするのに必死で、自分が楽しいかはどこかに置いていっていたように思う。せめて、子供たち(そして夫)のなかには楽しい思い出で残っていますように。
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