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【小説】ケルヌンノスの尻尾 第8話

 エレベーターを待つ時間もない、階段で6階まで駆け上がって、途中で躓いて脛を強打した。「あぁ」と濁点を帯びた短い叫び声がマンションをこだまする。転んだ拍子にポケットから画面を光らせたままの携帯電話がこぼれ落ちた。「朝日 突然死」「朝日 なぜ」「俳優 朝日」同じ名前のを繰り返し打った検索欄が履歴として表示されている。「朝日 突然死」から導き出せるリンクはあらかた死んでいた。ブラウザバックをしてサイトに更新をかけると、そのリンクすら先ほどまであった画面から消える。「俳優 朝日」の検索結果は0件。抗えない大きな濁流が俺たちの横を通り過ぎている。そしてその波に乗って、朝日は果たそうとしている。

 玄関に転がる段ボールを蹴飛ばして廊下をずんずんと進んだ。玄関の電気が遠慮がちに俺を人間と判断して遅れて脱いだ靴を照らした。勢い余ってドアノブを捻りながら左肩をぶつけ、全身で廊下扉を開く。天井から落ちてきたかのようにリビングへ駆け込んだ。

 いつもの場所に水槽男はやはり立っている。俺が、肩で息をする声だけが2人の間で存在した。水槽は右上が欠けていて、水は半分ほどまでに減っている。熱帯魚は泳ぐ範囲が狭まっていることも、水槽の外に出たら次はどんな姿に転生するのかも知らないし、考えていないようだ。くるくるとその身をくねらせて、底に沈む銀粉をまき散らす。
 水槽に銀粉が舞う様子を、ずっと宇宙のようだと思っていた。満天の星空の下、澄んだ海の中で仰向けになって目を開いたらこんな光景が広がっているんじゃないかと。水の中では歓声も罵声も聞こえない。

 半分になった水の中でまた、銀粉が舞っている。黒いスーツの腕をゆっくりと蛇口に伸ばし、水槽男はまた蛇口を捻ろうとしていた。一歩二歩、水槽男に歩む。互いにたじろくことはない。俺には水槽男が何をしようとしているか分かっていたし、水槽男も俺が何をするか、分かっているようだった。瞬きをすれば眼球の内側がゆるやかに痛み、唾液を飲み込めば食道が炎症を起こして、これも痛い。この場の空気と時間を吸収しつくそうと、体内が歯車のようにぐるぐると辻褄も歯車も嚙み合わせようとしているのが分かる。その歯車は初めて、俺と水槽男の2人ともに共通した。
「俺はお前を否定するよ」
 蛇口を掴んでいる水槽男の手を優しく払った。その手を下ろさずさらに水槽へ手を伸ばすと、無数に舞っていた銀粉に磁力が宿ったかのように、水槽越しに手へ吸い付いた。つつ、と水槽に触れてから離れると、銀粉は底に落ち、存在も消えた。出会うべき対象と一つになって役割を終えたようだ。
「せいぜい人の記憶の中で生きるんだな」
 銀河――遥陽が蛇口を捻る。銀粉が消え宇宙ではなくなった今、2度目の死を否定し6を0に戻してやることは、遥陽にしかできない。水槽の水はとぽとぽと音を立てて減り続けている。水槽から出れば実在しないこの男の水。
 水槽の表面にきら、と、光が増える。遥陽が光の元を見ると、カーテンの隙間から窓枠を飛び越えて柔らかく黄色い光が差し込み、部屋を照らし始めていた。夜は終わっていない。夜空を割いて、その向こうから朝の陽が覗いている。温かな光が割れた水槽に屈折して乱反射する。一つの光が幾重にも重なって、ずっと存在していなかった水槽男の顔が映し出された。朝の光が差し込んでいく面積が増えていくたび、そこには朝日の顔が、現れていく。
「朝日」
 親友の名を久しく呼んだ。いつものようにほんの少し肩をすくめて朝日は笑った。時間の有限性を忘れているわけじゃない。きっとこうした意識だけの会話もすぐに、できなくなる。咄嗟に緩ませた蛇口を締めようとするが、思考を先読みした朝日がその手を掴んで、微笑みながら首を横に振る。宇宙ではない、透き通った水が朝日から溢れ出していく。朝日の顔が見えるようになればなるほど、水槽から水がなくなっていく。住む範囲が狭まったことを理解した熱帯魚たちは自ら蛇口へ向かって、空気に溺れることなく、水と共に消えた。
「朝日」
 朝日の手は冷たい。その体に血は通っていないのだから。朝日の体は既に、死んでいるのだから。朝日の唇が開き、口腔を空気が通る音がする。朝日が、ここにいる。
「よう、相棒」
 肉声で確かに聞こえた朝日の声。鼓膜が知っている振動の仕方をした。そしてその刹那、水槽の朝日はそれこそ、跡形もなく消えた。「終えられたね、よしよし」と、朝の陽も夜を縫い直して身を隠していった。追いかけた途端に見失う白昼夢。あぁ、安心してほしい。俺を相棒と呼んだその声を、きっと生涯忘れることはないだろう。人の声から忘れてしまうというならば、俺は生涯朝日と共に過ごすことになるのだろう。

 人はいずれ死ぬ。総理大臣だろうが歌手だろうが、有名な俳優だろうが、夜ではなく晴れた朝に想う大切な人だろうが、いずれ。

 人生のエピローグで何かをこなそうとしてはいけない。その尾は自分の描いた円から生える書き損じであり、人間には必要のないものなのだから。エンドロールの途中で派生した物語を修正していく。書き換えられた主役の名前「朝日」が再び、世界に戻っていく。



#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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