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【小説】ケルヌンノスの尻尾 第4話

 碧海(あおい)の髪はずっと長くて、彼女の動きに付いていく別の生物に見えることもあった。柔軟さを併せ持つストレートな髪は、縮毛矯正をしていると知っていながらも碧海の性格が表面に出ていると思わせた。

 天井は高くない、水色とクリーム色の二色で統一されたヘアサロン「ink(インク)」。もうここに通って3年ほど月日が経つ。入り口の窓からはいつも陽の光が差し込む。その光がどんなに強くとも、その丸く切り抜かれた窓を通せば月光のように柔らかくなっていた。床は木目の温かいフローリング、ただ一部だけ天井から水がこぼれ落ちるように水色は床へ向かって塗られ、床と天井を繋いでいるデザインが施されている。銀河はそれをいつも横目に見て、しかし誰にもそのデザインについて尋ねはしなかった。
「いらっしゃいませ、あっ」
「3時からで」
「お久しぶりです! シフトと銀河さんのご来店全然嚙み合わなかったのでお会いできて嬉しいです。碧海ですよね。あともう少しだと思うので、お掛けしてお待ちください」
 このヘアサロンはブティック、ネイルサロンが一つにまとまったサロンで、区間ごとに分けられてはいるが、雰囲気の境界線がなく、気づいたらブティックに、ネイルサロンに足を踏み入れていたりする。ネイルサロン側の椅子に腰をかけて存在しない境界線のラインを目で追った。「境界線」という存在は、ひたすらに理性を働かせた者が作れる物事の分かれ目なんだなと思う。そこに感情が動けば「でも」「じゃあ」といった逆接が顔を出す。でも、それなら、と身を乗り出したところで
「お待たせ〜」
 とサンダルの踵をパタパタ引きずらせる碧海が視界の大部分を占めた。彼女はヘアサロンもネイルサロンも突っ切ってにやにやと笑っている。絹のように光る長い髪をたなびかせてそのまま顔を覗き込むようにして機嫌を伺ってきたので、肩をすくめてヘアサロンの奥へ進んだ。「待て待て」と踵を滑らせながら碧海は先回りし、回転式の椅子をこちらへ向けて、席へ座るよう首で促した。髪はずっと、碧海に切ってもらっていた。遥陽から銀河に変わる時も、ずっと。
「今日も?」
「いつも通りで」
「ふふ、相変わらず変えないねぇ、髪型」
「そっちこそ」
 羽衣のようにクロスを被させられ、布同士が擦れて甲高い音を鳴らす。目の前の鏡の中で自分と目が合う。目線を逸らすと碧海が伏せ目がちに、しかし無駄のない動きではさみの用意をしていた。碧海を見ると、大抵その目をしながら作業をしている。
「私、切った方がいいかな?」
「切った方がいいよ」
「銀ちゃんはほんと、ショートカットが好きだね~」
 口では余計なことを言う癖に、美容師としての彼女の動きにはやはり不必要なものはなかった。
 特別な役柄が回ってこない限り髪の長さは変えない。だから2週間に一度のペースでinkに通っているけれど、伸びた襟足が切られていくのを見るたび、ほんの少し、あったかもしれないifを絶っているような気持ちになる。変化していくかもしれなかった容姿を元あった姿に戻していく作業。一番安心する姿。世間と自分が「銀河」と認識する姿の恐らく一番美しい状態を見て、安心する。それをしたいが為に来ていることを碧海も分かっているんだろう。
 一度口を開いて、やっぱりやめる。自分の中に転がる大きな言葉の縦と横を整えて、刻むか増やすか厚みを見て、考えるのをやめた。
「朝日は何て?」
 唇が少し、緊張した。何も気にしていないように言えただろうか。昨日の今日で、気にしていた方が自然だっただろうか。その数秒間も碧海のはさみの音は止まらず、秒針が進むよりも速度は速かった。
「朝ちゃんは長い方がいいんだってー」
 碧海は伏し目で規則正しい動きのまま、髪の毛と一緒に銀河の一言を落とした。もしや、テレビやネットニュースを見ていないのだろうか。まるで「次聞いても長い方がいいって言うんだろうなー」と言葉の尻尾がついているみたいに。まるでまだ朝日が、短い方に気変わりする可能性があるみたいに。

 碧海は朝日のことが好きなんだろう。いつしかそう思い続けたままinkに通い続けていた。そんな碧海は半年に1回、朝日と銀河に自分の髪を切った方が良いか聞いてきていた。
「私、切った方がいいかな?」
「前も聞いたって」
「いいじゃない。質問の恒例行事。記憶の健康診断。はい、切った方がいいかどうか?」
 白魚のような冷たい手を両肩に乗せられ、束が作られた睫毛が頬骨をかする。パーソナルスペースとかないのか、という粘着性の持った言葉を飲み込み「切った方がいい」と言い続けた。「オーケーオーケー」と碧海は満足げに仕事に戻るが、光沢を放つその髪が短くなるのを見たことはない。朝日も言い続けていたようだ、「長い方がいい」と。ここ2年、朝日との繋がりは碧海を通して聞くことのみで、ここでも選ばれていたのは朝日だ。

 碧海は5年前、新宿で朝日と2人で歩いているところにカットモデルの交渉をしてきた新米美容師だった。自分の癖っ毛を活かすエアリーなミディアムボブだった碧海。必死にカットモデルを交渉する声を半分聞き逃しながら、いつしか水族館のお土産でもらったどこからどこまでが境界線か分からないまりものことを思い出していた。「カットモデルの声かけって普通、1人で歩いてる奴にするんじゃないんすか」と軽口を叩くと、まりも——碧海は「はっ」とコミカルに驚いて見せた。その挙動を朝日はひどく気に入った。
「カットモデルって滅多に見つからないんでしょう? いいですよ。俺たちも自分の管理はまだ自分に任されてるんだし」
 目尻に皺を寄せて三日月のような目で笑う朝日は銀河——遥陽に「返事はいらない」と横顔で語り、実際遥陽も返事をしなかった。かつて2人の間では問いを投げかける必要もなかったし、その返答も存在しなかった。
 もう問いかけることもできなくなった今、何を問おう。虚空に響かせるだけなら言いたい有象無象を晴らしてやれ。でもそれらは疑問ではない。朝日が今一番されたくない質問。
「お前、なんで死んだんだ」
 頭の中で自分の声が低く轟く。こんなことを言ってみた時の、朝日の顔が思い出せない。目や口元の歪みは見えるのに、全体像を完成させようとすると靄がかってどこかが必ず欠如していた。こんな表情を遥陽であった時代にさせたことはない。遥陽の記憶にはない、これは、銀河が得た補えない朝日の記憶。
 「朝日 突然死」の検索では変わらず、多くのネットニュース記事が引っかかる。事務所が発表していること、実はある一つの発言で誹謗中傷を受けていたこと、数年前のSNS投稿から導き出される朝日の深層心理、あること、ないこと、ないこと。「有名税」と小さく呟いて、適当なリンクを押した。すると携帯端末が少し考えるそぶりを見せて「404 not found」と白地の画面を映し出した。朝日はどうやら、インターネット上にはいないらしい。


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