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【小説】ケルヌンノスの尻尾 第5話

 最寄り駅について、電車を降りる。半径100メートル以内に2~3軒あるうち唯一サッポロビールを仕入れているコンビニへ足を運んだ。このコンビニは駅から2番目に近い。コンビニで弁当とサッポロビールを買って、有料のレジ袋の中でそれぞれが片方に傾いていくのを感じながらマンションに帰った。レジ袋が有料化してからエコバッグを持ち歩けた試しが一度もない。省くことができるはずの無駄を、なんなら自分の意志で持ち続けていることもある。エコバッグを持ち歩けた試しがないんじゃない。目に入ったとしても見ないふりをしている。なんとなく、帰り道には金を支払ったレジ袋を引っ提げていたくて。

 昔はできないことの数を明確に数えていた。この場合、昔というのは遥陽の時代も含まれていて、例えば「脚本に書かれた人物の人生を立体的に考えること」ができなかった。何をどうしても平べったい。明朝体で綴られた主人公たちからは意思も欲求も感じられない。受け取った台本すべての人物が同じ性格に見えて、全員澄ました顔をしていた。量産型に切り抜かれ形代のように人型をした表情のない紙切れ。生きていない彼らの皮だけを被って文字の声を乗せるも、監督が首を縦に振ることはなかった。「できていない」ということは分かる、理解はできる。事務所の先輩が「遥陽はこの人物を生かすだけの表現力はあるはずだ」と言う意味も分かる。それが嘘だとも思わない。でも、その時遥陽が自暴自棄になってすべてを捨ててしまいたいと嘆いた時に「整理するだけの時間を持ちなさい」と言った大人を、ずるいと思った。今この一分一秒、毎秒を生きている等身大の遥陽ではなく、結論を出した過去の自分に酔いしれて、美化した一番気持ちの良い所をかい撫でているだけだったから。既に完成している星座の見方を教えて欲しかったんじゃない。点と点が線になった、熱を持ったままの球体を形作るやり方が知りたかった。歪な形を愛する方法を嚙み砕いて飲み込みたかった。

 玄関の人感センサーの橙が肩と段ボールを照らす。冷蔵庫に弁当とサッポロビールを入れて一度は扉を閉めるが、そのままもう一度開けてサッポロビールだけを取り出して開けた。最大値ではないにせよ、その冷たさが喉の奥をくるくると回り腹に落ちる。ドアが開きっぱなしの洗面台に缶ビールの一口目を飲み込んだ銀河が映っていた。ビールが駆け抜けていった喉ぼとけがうるうると白く光っている。飲み込んだ分だけの息を吐き切ると、心臓から熱気を帯びた血液が一気に放出されて指先が痺れる。あぁ、全身で呼吸をしているんだと、手のひらで鼓動を感じながら毛細血管に酸素が行き届くのを待つ。

 もう朝日はサッポロビールを飲むことができないんだな、と思った。生きている間は感じなかった朝日を、死んでから傍に感じる。いなくなるとはそういうことだ。気配はもしかしたら二の腕や脇腹に密着しているのかもしれないし、次第に忘れていく順序を踏んでいるのかもしれない。人は、声から忘れると聞く。
 あぁ、そうだ。朝日にはあって銀河にはないものを、一時期は嫌でも数えていたこともあった。銀河にできて朝日にはできないもの、死んでから、やっと?
「冗談だろ」
 吐き捨てた独り言が思いのほか大きくて、もう一度ビールを口に含む。そんなことはない、生きている間にも何かあったはず。銀河の代わりに冷蔵庫が首を傾げるように唸った。廊下扉の向こうでは今日も恐らく、水槽男が飽きもせず立ち居続けている。

 あぁ、そうだアイツは。
 自分の祖父の死から目を逸らすことができていなかった。

 キッチンの蛇口が頷くように水滴を垂らした。垂れた水滴はゆるゆると震え迷いながら排水口へ向かっていく。核を揺るがし責められることを待っているようにも「助けてくれるんでしょう?」と期待されているようにも見えた。

 「俺、遥陽の葬式には出ないよ」
 5年前、河川敷の白いガードレールに腰掛けながら朝日は言った。監督の乱暴な指示に反抗心を覚えた朝日と遥陽が撮影所を抜け出したものの、南を東と謳う新宿を乗り越えられなかったある夕方のことだった。夕陽は雲に光の影を作りながら、燃えるように黄色いその手で2人を手招いている。自分の中で脳や臓器を除いた部分にめいいっぱい空気を取り入れ、人型に2回分体内の酸素を入れ替えた後に
「冷たいこと言うじゃん」
 と乾いた笑い声を交えながら答えた。喉に回転草のような乾きが巻き起こったので唾を飲み込んだ。朝日の前髪がモールス信号を受信しているかのように、ある規則性を持って揺れている。風の中、朝日は瞼を閉じた。昔からそうだ。朝日は「後悔したくないから」と言い、度々自分と他人の時を止めて何かを考えている。それは息をしているか心配になるほど静かなようで、朝日の中で鳴門のような思考の渦が巻き起こっているようでもあった。
「高一の頃、俺のじいちゃんが亡くなっただろ。病気だったんだけど。これが最期の別れだっていう時に、なんだか言葉がうまく出てこなくて一旦トイレに逃げたんだ」
 家族の前で泣くのもね、と朝日から照れたように笑う声が聞こえたけれど、恐らく笑ってはいない。朝日の顔は強い西日に照らされて、隣にいるのに光って見えない。光が何かを見えなくすることもあるんだと思った。光とか神様とか、何か大きな、大きな流れが朝日と遥陽を取り囲んでいる。2人が新宿から出ることができないことは定められていた筋書きであるかのように。
「大事な時だって分かってた。これから先じいちゃんを思い出すたびに今日のことを思い出すんだろうなってことも。最期かもしれないこの今を後悔しちゃいけないとも思った。なのに」
 また、止まる。朝日と遥陽の時が止まっている間、夕陽は暇を持て余し小さな雲を捕まえてはほんの少し光の差し方を変えて見せた。欠伸をしながら日没というゴールテープをひらつかせている。
「じいちゃんに対して死ねっていう強い言葉が俺の中で止まらなかったんだ」
 空気が不自然なほど澄む。クリアな空間に朝日の告白が響いて、俺はいいけど、朝日が自分の声を聞きすぎていないといいなと思った。朝日の口調は、たった今思い返しているにしては台詞じみ過ぎている。告白は実体化していて朝日の中で一定の記憶を反芻し、混沌とした感情を整理した上で口に出したことが分かる。黄色と紫のマーブル模様をした楕円形の感情を、朝日はフルーツナイフで四角く切り分けている。
「でも、その後じいちゃんの手を握って俳優になるって約束した。そんで、やっぱりそれが最期だったよ」
 もう意識のない状態だったけど俳優になると誓えたのは良かった、その誓いがあるから自分は頑張ることができる。そう前向きな言葉を連ねるたび、朝日の顔は俯いていった。
「俺の中で鳴り響くような死ねっていう自分の声が、今でも忘れられない」
 言い終わるなり、いつの間にかやんでいた規則的なそよ風がまた朝日の前髪を揺らした。
 もしかしたら朝日は明日死んでしまうのかもしれない。死んでしまうというより消えると言う方が正しい。そして朝日と認識されることはなく、朝日ではない肉体でほんの少しをまた生きるんだろう。複雑めいているようで直感に近い真理が手に取るように分かった。特別、朝日を救わねばという気はしない。しかしそれと比例するように、朝日が語ったことに対して悲観する思いもなかった。遥陽は朝日の相棒だから。
「形の持たない死ってやつに、ちょっとビビっただけだろ」
 夕陽が不満げに睨んできて、遥陽の目を焼く。夜空になるのを待てと言われている気がする。既に星と星を結び、レールを作っているのだからと。円の始まりと終わりを描くペンはこちらで用意していると、右手に握らされている気がする。
「あぁ、そうかも。死は救済なんて言葉もあるし、苦しんでるじいちゃんを見ていられなかったんだろうな」
 伏せていた目を開くと、朝日は恥ずかしそうに眉をひそめて笑った。結論がないにしては自分の核について語りすぎたと思っているのだろう、慌てて壁を作り上げようとする朝日に、遥陽は分かりやすく身体を向けた。
「違う。お前はじいちゃんから目を背けたんじゃない。立ち向かうにはデカすぎる死に怯えただけだ」
 遥陽は朝日を否定する。朝日が描き終えようとしていた円のペン先を正してやる。夕陽は大変気に食わない様子で、光の鋭さを増して朝日と遥陽の体を刺した。朝日が目の痛みに遥陽から顔を背けようとする。させてたまるか。遥陽はガードレールから立ち上がって朝日に降り注ぐ夕陽の盾になった。朝日が日陰の中、眩しげに瞼を開く。
「自分は酷い人間だなんて自惚れるなよ」
 流れるように出たにしては強すぎる否定の言葉に、朝日も遥陽もしっかりと2本足で立ちながら腑に落ちる場所を探していた。そして互いの目線が音をたてて合った時、まるで鏡を見ているように同じ顔をしていたことが言いようのないくらいに滑稽で、2人とも数分間その場で笑い転げた。さっきまでの空気と打って変わって、ひぃ、ひぃと。それこそ2人して死んでしまいそうなほど声を枯らすまで笑ってやった。夕陽も夜空も、その日は2人を見やしない。
 思い返せば、もう少し頑張ればあの日だけは新宿から抜け出せたのかもしれない。あのまま夜から朝も地続きであることを知れていたら、朝日はまだ円を描いていたのかもしれない。
「自惚れるなよ」
 声変わりを終えて地鳴らす遥陽の声が銀河を小突く。ビールを飲む大人よりもジンジャーエールを片手に持つ子どもの方が、大事なことを知っている時もある。


#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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