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【小説】ケルヌンノスの尻尾 第7話

 終幕後、銀河は様々な関係者に「今日のすごい良かったよ!」と肩や背中を叩かれながらも上の空で走り、劇場を後にした。「今日だけはエゴサしときな!」弟役の俳優が口角から鮮やかな赤を垂れ流しながら手を振っていた。

 「なんとなく」「もしかすると」「かもしれない」、これらの連語は曖昧で意志を弱めたクッションのように見えるが、見た目通り半透明な皮を被っている言葉たちだ。水まんじゅうのように薄っすらと内部を包みながら、人の本心を守っている。はっきりと映し出したくないという、しっかりとした意志を持つ。

 半蔵門線の発車ベルが鳴り響く。階段を2段飛ばしにして泳ぎ切るように、閉じかけた車両に飛び乗った。乗客が銀河から一定の距離を保って息を潜める。腕時計が複数の長方形で表記する「20:16」。渋谷から表参道までの1駅間、頬にメイク落としシートを乱暴に押し付けて、非日常から日常へ溶け込む。弱酸性なオイルが目に染みて手首で拭った。落とし切れていないアイシャドウが銀河の目のラインを歪ませる。カタタンカタタンと軽快に都会から都会へ窓の外が移ろっていく。夜を横移動する中、遠くに青白く光る塔が見えた。新宿にある巨大時計塔だ。

 2年前の春。占いを特別信じているわけでもないが、もし天中殺という運の低迷期が実在するのであればこの時期から始まっていたんだろうと思わせる。遥陽から銀河への切り替わり地点、陽から運河へ方向転換をしている最中、新宿にある事務所のソファで毎日同時刻同じ形になって銀河は項垂れていた。無駄なことなどないと意気込んで数ヵ月、恋愛漫画の実写化からライダー系の怪人までオーディションを受け、落ち続けた数が20を超えてから数えるのをやめた。世間から引っ張りだこになる朝日が背中を擦り付けながら上へ上がっていけばいくほど、銀河へかかる重力は重くなって下へめり込んでいく。分母が多くなっていけばいくほどどうでもいいと投げ捨てる事柄が増えた。いつしかカテゴリの中に自分も入れてしまって、自分を大切にしないことによって周囲を責め立てていた。

 朝日と最期にした会話を、ずっと思い出せなかった。思い出したくなかったのか否か、すべての主観が銀河であるため判断は曇っている。だけど、分かった。この記憶すら投げ捨ててしまっていたからだ。

 事務所のソファに首を投げ出して屍へと化す銀河を慰めようとする大人は次第に減った。自分のことは棚に上げて、もう1段上げて、高いところから「大人はこうやって見殺しにする」と非難するのは心地良い。自分を下敷きにして大人を切ると同じ形の切り傷ができた。できた傷が渇かないうちに触って、赤茶色に膿んでいく。痛みはとうの昔に抑制力を無くしていた。その地点に到達していた銀河に、まだ土足で踏み込むことのできる短髪の男が目の前で両脚を揃えた。
「はーるひっ」
 あぁ、今一番嫌いなものは以前の名前を呼ぶ音だ。かぶれてざらついて逆立った皮膚を、朝日は何の遠慮もせず無秩序に撫で回す。眉間の皺が深まり、幾重にも重なっていくのが分かった。成功しか知らないサイコパス。威嚇を込めて舌打ちをするも朝日には響かず、上機嫌に隣へ座ってきた。朝日と「銀河」は初対面であるはずなのに、朝日は早くも自分本来の喋り方で続きを話そうとしているようだった。冗談じゃない。
 項垂れていた体を起こし、この最悪からさっさと立ち去る。S字に戻ったことを思い出したかのように背骨がベキベキと鳴る。もう二度と顔を見せるなといかり肩で風を切って歩いた。ギュウ、とソファが窪む音がする。

「遥陽は銀河なんかじゃないよ」

 朝日との最期の記憶はこの否定だった。最後、どんな顔をして「銀河」を否定していたのか、顔を見てやれば良かった。だが、なぜだかどうして朝日に否定されたのは自分であるのに自分ではない、だが自分が貶められるようなの痛みと熱が身体に走っていて、冷静になり切ることもできなかった。自分でも「銀河」がどこにいて何色をしているか定かでなかったのに、朝日は友達の友達は全員親友という顔をする。

 表参道から徒歩10分、閉店後の「ink」の扉を3度叩いてからいつも月光を取り込んでいたガラス戸窓に気づき、店内を覗く。複数の美容師がカットモデルや同僚のカラーを入れ、1人のネイリストがネイルチップでデザインを考案している。
「どうしたの」
 鍵がくるんと回され扉から小さな女性が顔を出した。
「閉店後にすみません。あの、碧海——」
「お望みの碧海、ですけど」
 そこには水を縦に流したように伸びた髪はなく、まるで5年前の妖精のような幼い碧海が立っていた。本物の月明かりに照らされるショートカットパーマな黒髪。
「……切ったの?」
「えぇ? 切った方がいいって言ってたじゃん〜」
 前髪も眉毛より上で切り揃えられている。目から入る碧海の情報すべてが更新されていて、顔のパーツごとに脳内で上書きをした。眼球がこぼれ落ちるほど黒目が動く、何も見えない。
「ちょっと、本当にどうしたの? メイクも中途半端に付けっぱなしで。立ち話もなんだからお店入る?」
「朝日の好みから変えて良かったのかよ」
 誰の何を代弁しているのか分からない。でも、人は変化を嫌うから、何がどこまで変わってしまっているのか分かっておきたい。俺と朝日が例えば線で繋がれているとして、その世界で何が起きているのか。
「朝日?」
 途端に碧海が知らない人のような気がして、ひゅっ、と、小さく息を飲んだ。

「誰それ」

 頭の中で水槽男がゴポゴポと水を鳴らしてこちらを見ている。白背景を背に、目的が達成されるまで鎮座している。
 冷え固まった表情をする俺を不可解そうに見つめながら、ついでに店の外の看板をしまう。
「あぁ、やだ。今日ずっと日付間違えちゃってた」
 ブラックボードにチョークで書かれた日付を、碧海が人差し指で修正する。6月「26」日から、6月「20」日へ。
「あっ、ちょっと、銀ちゃん!」
 発射台が設置されているかのように、今度はinkから飛び出した。

 なんとなく分かっていた。もしかするとと思っていた。そうかもしれないと生唾を飲んだ。
 俺と朝日を繋いでいた碧海がこうなっているなら、完遂まで時間はない。

 水槽男もとい故人・朝日は、2度目の死を自ら迎えようとしている。


#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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