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【小説】ケルヌンノスの尻尾 第2話

 「0」を描く度「6」を描いてしまう。描いてしまうというより「0」に近しく見える円にして尻尾を長くしてしまうのだ。生まれ月をいつも「62月」と書いて番組アンケートもその表記で提出したため、番組内で印刷されたアンケートがホワイトボードに掲示され、MCにツッコまれた。その時の銀河——当時は遥陽だ——はたじたじと小声で喋り、オンエアでその箇所はカットされていた。そしてどんな共通項か、朝日の尻尾も長かった。同じくMCに振られた朝日はその時初めて気づいたような声で「長い方が良いかと思って。ねぇ?」と銀河の方を向いた。その朝日の発言があってやっとカメラに2人の「6」が抜かれた。その時朝日がどんな顔をしていたかは覚えていない。ただ遺影通りの爽やかな笑顔を浮かべていたかと言われれば、違うと思う。幸い朝日がそう笑うようになったのは自分が『銀河』になってから、つまり距離を取るようになった後からだ。

 ガチャン、と鍵をかける音が外廊下に響いた。人感センサーで点く玄関の電気は銀河自身も、また片づけきれていない段ボールの山も照らす。開いて1枚の板にしてゴミステーションへ放り込むところまで考えて、明日の自分に任せた。

 ネクタイを緩めて廊下の扉を開ける。と、その時。玄関の灯りのみで照らされた部屋にようやく、誰かがいることに気づいた。男の不審者。
「うわ!」
 途端に扉を閉める。心臓が跳ね上がる。死ぬ。明日以降に自分の死が報道されている様子を思い浮かべる。体の毛穴という毛穴から玉のような汗が沸き出してきて体温が低下していく。こういう時に余計な、いらないことばかりが脳裏を通り過ぎていくのは一種の逃避なんだろうか。中学の頃母親が勧めてきた空手教室に通っておけば良かった。数年前1シーンのみの殺陣をヘラヘラとせずもっと積極的に習っておけば良かった。男の首から下はやや闇に溶けている、しかし黒スーツだ。そして首から上は……。

 決して、今まで生きた常識を疑わなければ、決してこの扉を開いてはいけないはずだった。ただの男と認識していれば、退路の確保があるこの状況で扉を開ける理由なんかない。ただ、不審者の首から上が気になった。一瞬、水晶体がとらえたあの映像が正しいのであれば、部屋にいる男は人間じゃない。高鳴る心臓よりも数回遅れて、小さく細切れな酸素を体に取り入れる。赤い尾ひれを持つ金魚のように口を開き、閉じる。夢か現か、揺らめく視界の中でもう一度、静かに扉を開いた。隔てられていた扉の先の生温かい空気が首をかすめる。変わらず死の予感は肩や腹に纏わりついている。あぁきっと、開けなければと後悔する1秒後があるのかもしれない。それでも、瞼の裏で反芻するお前の姿を認識しなければと体が動いた。

 玄関の人感センサーはもう一度、部屋の男を照らした。黒いスーツを着た、肩幅のしっかりとした男。その頭は、縦長の水槽だった。顔の位置には銀粉の舞う透き通った水があり、背景にある部屋のカーテンを屈折で歪ませている。そしてその中で、複数の熱帯魚がひらひらと泳いでいた。水槽男は何もない空を見つめていた、迫ってくる様子はない。ドアノブを強く握り視線が交差しないながら、数秒の時が経った。四角く切り取られた部屋の中で動くものは、水槽男の赤く青い熱帯魚だけ。次第に玄関の明かりが消える、それが「静」を気取れるタイムリミットだと思った。先手をこの異形に打たせてはならない。体感に任せず可能な限り観測していた時間経過を元に、一歩部屋へ踏み込んだ。水槽男は動かない。思い出したように酸素を体中の毛細血管へ送り込み、思考と共に二酸化炭素を吐いた。もう二歩ほど部屋に踏み込む、そして水槽男を目に捉えたまま壁スイッチを押して部屋の電気を点けた。シーリングライトは躊躇いを見せながらも部屋を白く一気に照らす。
「誰だ」
 自分の声が耳の後ろから聞こえた。弧を描いて部屋に響く。すると、あぁ、動いてもいいの、と初めて気づいたように水槽男はこちらを向いた。向いたと言っても、目も口もない水槽なのだが。ゆっくりとした動作に、視線が吸い込まれる。敵意のない速さで水槽男は自らの水槽の側面を、なんだか触っている。「キュ、キュ」と金属が擦れる音がした、どうやら蛇口を捻っているようだ。突然、水槽の中にゴブリゴブリと空気が送り込まれる。そして

「おう あいおう」

 そう聞こえた。それこそ水中で発する、曖昧な母音のみが鼓膜に響く掴みようのない声だった。銀粉の舞う水槽の水が少しばかり減っている。

 なんで世間は朝日を選ぶんだよ、と一人部屋で叫んだのは、22の秋頃だった。「大人」という主語に自分が入らないと見なして、大人は事あるごとに朝日を選択していった。遥陽と朝日のどちらか、それなら朝日。土曜21時のドラマ主演キャスティングを事務所内で、それなら朝日。日本アカデミー賞を受賞、それなら朝日。

 「なんで」と言った声の反響音を不快に感じた時には、自分でもよく分かっていた。朝日は実力に見合わないほど多方面に気を配る男だった。自分の足で駆け上がったであろう多くの段をたった一歩で戻ってきて、二言三言感謝を伝え、また上へ戻っていく。それを何の気なしに努力とも思わずやってのける男だ。スタッフから慕われ、監督に慕われ、放射線状に人脈を増やしていった。いや、それすら自然と増えていた。意図的ではなかっただろう。遥陽には、それができなかった。隣に立つ朝日が「人間のことが好きだ」という顔をするたび、朝日と遥陽の間に石段が出現する。それは毎日、遥陽が朝日を認識するたびに音を立てて増えていく。朝日が登っているのか遥陽が下がっているのか、すべてが同時に起きているのか、どこに齟齬が生じているのか生じていないのか、分からなかった。

 朝日は上へ上へ上がっていく。朝日の顔に陽の光が当たって、次第に白い点となって見えなくなっていく。それでも時々その千里の道すら一歩で自分の元へ駆け寄ってくるから、嫌だった。まるで昨日の遊びの続きをしにきた大型犬のような人懐っこさが鏡となって、穿った目で睨む猫のような自分が写るのが苦しかった。


#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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