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【小説】ケルヌンノスの尻尾 第3話

 順撮りで撮っていくんで、このまま運転席でも大丈夫ですしケータリングつまみに行くでも大丈夫です。

 スタッフの言葉に顎で返事をしたものの「はあ」と思った。言うのが遅いだろう、数分前につけた白い布手袋を裏返しにして外す。布の繊維が引っかかって手の甲に痒みが走った。

 水槽男と部屋で対峙して一夜。銀河は何の予定も変更することなくドラマの撮影現場にいる。「おう あいおう」という奇妙な声以外、水槽男は何も発しなかった。初見の頃より減った水量と、それによって増えた空気の空洞を見つめながら「お前は誰だ」と聞くも、水槽男は答えなかった。「どこから来た」、答えない。「どうやって来た」、答えない。ただ最後、諦めたように吐き捨てた「お前は俺を殺しにきたのか」という問いにだけ、水槽男はゆっくりと首を振って否定した。水槽の水がインフィニティを描くように揺れる。銀粉は舞っていない。生きているのか死んでいるのかその概念すらないような個体に己の死を否定されるのは、その場の緊張感の割に滑稽だった。
 試しにリビングを後にして洗面台へ向かっても動いていないので、風呂に入ってみた。明らかな人外であるのに、戸を何枚か重ねた先に友人がいるような居心地の悪さがある。無害であると思わさせられたし、実際無害だ。これをお人好しと呼ぶのか危機管理不足と呼ぶのか考える間に、ついに睡魔まで訪れて「あぁこれは、死んだとて後悔しないだろう」と踏んで床についた。部屋の電気を消すと街灯の零れた白い光が窓の隙間を縫って斜めに差し込んでくる。なぞるように目で追うと、水槽の一部が反射して、中で沈んでいる銀粉が身を翻して光って見せた。ほんの小さな一片、でもその中に宇宙を感じざるを得なかったことを、急激に勢いを増す眠気の中確かに思った。
 眠ることが死でないことを理解しているから、怖くない。それがこの世の条理であるから。それなら、その条理から外れたあの輪では、もしかしたら……。そこまで考えて、意識の糸は滑らかに切れた。水槽男が糸を絡め取ったのだろうか。やはり水槽男は銀河を死へ導くのではないだろうか。

 タクシーの中はあらかじめ冷房が利いていて、新しい車の匂いが冷たくなって鼻孔を濡らす。今撮影しているドラマは季節感が薄いためか、運転手の制服も長袖、帽子も着用だ。おまけに役どころが「未知に迷い込んだ主人公を導く、毎度姿の変わる案内人」であるため、枠として言ってしまえばゲスト出演。求められるものの高さも、濃さも、ない。「今回の運転手は銀河なんだ」と視聴者に思わせられるだけ十分なんだろうが、何のストーリーも背負わない銀河に価値をつけられるのだろうか。
 いつしか居場所が変わるたびに人間関係を一新するようになった。ずるずると引きずっていた尻尾を断ち切るように、もしくはすり減って体の一部から無くなっていくように。それは何の根拠もない0からのスタートへ無責任な期待を寄せてのことだった。実際は球体になれず、立方体の一面しか見せるはできなかった。何の絵柄もない四角い金太郎飴。奥ゆきのないスライスが足元に連なる。一面体も積もれば足かせとなる。
 本当は出会うその人その人に、心の内部を取り出して見せてやりたかった。こんなことを考えて生きている、こんなことに傷ついてこんなことで笑う、捻くれる。核である球体にいつの間にかこびり付いた常識や偏見、自己満足かと思っていた優しさ、賢さを勘違いした愚かさを提示してやりたかった。そんな無防備でまともに食らったら、すれ違う花びらですら傷を作ってしまいそうなやり方を選ぶことはできなかったんだ。求めている結果とできる方法は一直線にならない。銀河には、尻尾が必要だったのかもしれない。

 タクシーの運転席で袖をまくるかまくるまいか、手首を眺めている時だった。スーツを脱いで手首のボタンを外してまで袖をまくりたいかと言われるとそうでもない、と暇を持て余して、ふと窓の外を見た。このタクシーはある学校の校庭にぽつんと停車していて世界の違和感として仕事をしている。校庭の地面上を、埃をなぞるように横一直線へ視線を動かしていると一つの個体にぶつかった。水槽男。アイツだ。タクシーから何メートルか離れた所に、アイツが立っている。
「何しに来たんだよ」
 水槽男を目の前にした時に聞き忘れていた疑問を車内で呟く。「何しに来たんだよ」という疑問は、もう既に水槽男の存在を受け入れている次に思いつく疑問だ。そもそも疑問を持つこと自体が、そうなんじゃないか。異形ながら、液体化して思考の隙間に入ってくるあの男は何なんだ。
 水槽男はこちらを見つめている。目や鼻こそないが、黒いスーツの正面がこちらを向いている。変わらず迫ってくる様子もないが、目を離して良い対象でもなかった。車の四角い窓の中に、水槽男がいる。ドラマの一場面が終わったのか、スタッフが沸いて出たように校庭へ拡散していった。人間と人間が交差する。その中で水槽が時折見えなくなりながらも、いずれ現る。そう確信している。どの頭と繋がっている腕かどの体がどこへ向かったのか判断が難しいほど、目の前に人間が溢れている。スタッフは両腕を上げて踊るように忙しく動いていた。それはおよそ人間の動きではなくて、おびただしく狂う海藻のようだった。四角い窓に額縁がかけられ、狂気じみた大衆の中、水槽男がこちらを見ている絵が完成した。
 しばらく車から降りるのをやめた。何かが銀河を引き止めたし、降りたら、なんだか死んでしまいそうだった。


#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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