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【小説】ケルヌンノスの尻尾 第6話

 配役の大小に関わらず、ドラマの撮影期間と舞台の公演期間が重なるのは珍しいことではない。マネージャーが更新するスケジュール表も「ドラマ」「舞台」の色別タグが交互に合わさっていて、どう入れ替えても曖昧で見辛い。午前に感情の見えないタクシードライバーを演じ、午後には狂った弟を猟銃で撃つ兄の役を演じる。自分の内部で2人の人格が呼吸をする。それぞれの吐く二酸化炭素が生暖かく混ざり合い、内面が結露した。
 舞台後、1年間だけ担当していた前のマネージャーからはよく〈今日朝日くん観に来てましたよ!〉と、メッセージが入れられていた。なんだお前、俺が銀河になった理由すら知らずにマネージャーをやっているのか、と、誰にも見せたことのない手札で憤慨していたこともあった。

「恋じゃない?」
「えっ」
 拍子抜けな銀河の声が楽屋の天井に転がった。目頭から漏れ出た高い声に戸惑い、咳払いをする。
「兄が弟に持ってた感情」
 白い楽屋の長机の上で頬袋にめいいっぱい白米を詰め込んだ弟役の俳優が台本を片手に何か、言っていた。俳優だ。叙々苑の上カルビ焼肉弁当にかじりつくこのわんぱくな姿を見ていたら、舞台上でヒステリックに泣き叫び、やがては何も写さなくなる巨峰の目をした弟の姿を誰が想像できようか。悲劇が開幕する前、その弟は蛍光灯の光を受けててりてりと光る肉をまくまくと口に運んでいる。
「兄弟で?」
「いやほら、恋って言ってもあれだよ。イチャイチャしたいとかじゃなくて」
 言い終えてもいないのに弟はさらに白米を口に追う。
「見据えた未来には必ずいた存在だった、とか」
 とか、を言い終えて弟は喉に詰まらせ、こもった咳を繰り返しながらウォーターサーバーへ水を取りに行った。

 もし舞台の客席で朝日を見つけたら、この猟銃で撃ってしまうかもしれない。沸騰前の湯が鍋底で存在を主張し始めるのと同じ温度で、その可能性を考えていた。
 頭の中で兄弟が対峙する。猟師として生きることを夢見た兄を後押しする形で、弟は代わりにエリートとして育ち、長男が会社を継ぐべきと思想を固める気難しい父親をなんとか静めていた。絶対的信頼で兄弟が結ばれていることが、特に弟にとって最大の幸福だった。もし花に成り果ててしまったとて、その花束を兄へ捧ぐことができるのなら。仮にこの兄弟の間柄で抱いていた感情が、果てしなく大きい括りで言ってみれば恋だった場合、それでもその矛先は弟から兄へ指すものだろうと思う。自己実現の形で兄の幸せを願い狂った弟、自己実現の形で自分の自由を行使した兄。クライマックスで兄が弟を撃つのも、弟が兄にとっての聖域である猟場に足を踏み入れてしまったからだ。対峙した兄弟を俯瞰して見つめる。数回瞬きをしたところで突然、兄弟の顔が朝日と銀河にすり替わった。
「見据えた未来には必ずいた存在だった、とか」
 弟の顔が朝日に、兄の顔が銀河に。顔に紐付いて役割と思いが、重たい遠心力がかかりながらも遅れて兄弟の元へ辿り着く。次第に弟の顔が切れかけた電球のように点滅を繰り返し、兄を見るいたいけな表情は等価として白く清楚なドクダミの花になったりしていた。そんなわけないだろうと食べかけの弁当に蓋をした時、ふわりと気配がする。
 困った。今日、恐らく客席に、朝日が来ている。

 本日2度目の幕が上ろうとしている。幕の向こう側では先ほどまで下落していく兄弟の物語を真摯に甘受していた観客が、大衆に成り代わって異なった動きをしている。手洗いから戻り座席に着く者、パンフレットをめくる者、ここまでの感想を隣座席の友人に語る者。物語を人間の構造上、そしてエンターテイメントを最大に肌で感じるためには致し方ないにしても、舞台の中間休憩が苦手だ。好きじゃない。舞台はドラマと違って、その事実が目の前で起きている。黒いベゼルのない枠を乗り越える芸術、役者の声を風で感じ得る生きた場所、それが舞台。主人公たちには中間休憩といった区切られた四角い時間など存在しないのだから。
 ねずみ色のライフル銃が腕の中でカチャリと高い金属音を鳴らす。フロップガンながら金属が内部に敷き詰められている重厚感がある。同日に2公演ある日は1公演目で撃った火薬の香りが銃口からほのかに香る。今日はまだ発砲されていない。弟役の俳優は上手側で待機しているはずだ。この中間休憩で青白い粉を振り、黒いアイシャドウでくまを作っている。もう弟は傍にいない。

 朝日は来ていなかった。いくつもの「それはそうだ」という自分の声が多重になって聞こえる。劇中、いつもなら見ていない客席を弟と口論を重ねる中見回していた。皆、目が2つ、鼻が1つ、口が1つ、構造は同じであるのにことなった顔がズラリと並んでいた。見覚えのある顔がないことに安堵した表情が出ないよう、額に力を込めたりもした。
「まもなく後半の部を開始いたします。ロビーにおいでのお客様は、お席にてお待ちください」
 中間休憩を区切る女性アナウンスの声が劇場の上部で響き渡った。大衆は指示に従い、座席に着き、パンフレットをしまい、口を閉じた。開演1分前にして、観客はコピーとペーストが繰り返されたように同じ顔をしている。朝日はいない。

 幕が上がってから1時間。兄弟の中では数年の時を経て、今を得る。舞台上では兄と弟を照らす金色のスポットライトが2本伸びていて、健康的な肌色と死人のような青白い肌が対となっていた。
 弟の語りの間、スポットライトの根源を見つめるようにして、客席を見た。2回以上観劇しているのであろう女性がクライマックス前に大粒の涙を流している。弟の悲痛な叫びに共感しかねて眉をひそめる男性もいる。
「兄さんは僕を拒むことはできないよ! 僕を否定しきることなんてできない! 僕たち当人が思うより遥かに、僕たちは1つの塊なのだから!」
「来るな! こちらへの歩みを止めろ!」
「兄さん……!」
 兄は猟銃を構える。演出として対峙する兄弟は2人とも客席側を向いていた。ライフルスコープを覗き、銃口は客席へ向ける。

 次の瞬間、銀河は悲鳴を押し殺す。
 ライフルスコープの向こうに水槽男が座っている。F列、舞台から6列目の下手側に。

 先ほどまでそこに観客がいたか、その客が水槽男に成り変わったのか、大衆へと化した時間があったか分からない。両隣の観客は水槽男の付き人と名乗ってもおかしくないほどに落ち着いていた。
 F列。6列目。下手側。招かれざる客、水槽男。銃口が彼を引き寄せたのだろうか。S極とN極、何度生まれ直しても意味はないくらい、銃口が彼に向くことは決まり切っていた運命であるかのようだ。空が空と呼ばれるよりずっと前から存在するように、それは人の一生では輪郭すら撫でることの叶わない大河。舞台上と客席が無い枠を超えて一つになる。
 十字の真ん中に水槽男を捕えている。今、自分が何ミリグラムの酸素を吸って、人差し指がトリガーに何ミリグラムの重さをかけているか、すべて大きな力に計算しつくされている。今、自分は兄であるはずなのに、心の奥底から「遥陽」である自分を探していた。「いいよ。共同作業だからね」と、アシストされるように水槽の中で銀粉が舞った。
「こちらへ来るな! この、人間のなり損ないが!」
 破裂と打撃が同発した銃声が観客1000人の前で鳴り響いた。弟は巨峰の目で天を仰ぎ、遅れて理解した体からは血しぶきが花咲く。2本のスポットライトが物語の顛末を晒しだす中、死を肉眼で見るためにスコープから顔を除ける。破裂と打撃が同発した中、もう1種聞こえたガラスの割れた音。スポットライトがゆっくりと絞られていく中で水槽男を探した。F列。6列目。下手側。暗転するまでのほんの一刻、開いた瞳孔でガラス破片を捉えた。空砲で火薬の香りのみがする猟銃で、水槽男の水槽は割れていた。蛇口とは反対側の、人間でいうこめかみ部分。すっかり暗転した中、あるはずのない光に反射して銀粉が踊り狂っている。



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