なぜ農耕か?

 なぜ、農耕をするのか。誰かにそのようにはっきり聞かれたわけではないが、ダラダラと書いてみようと思う。読んでも何らかの知見は得られない。また結論を先に言うと、生きていくためである、である。

 拙宅は、自他ともに認める「だめ」な人間である。まず、提出物を締め切り通りにださない。ようやく出しても紙の端はボロボロである。部屋は本が散乱しており、頻繁に掃除をするわけではないので整っておらずだらしがない。「きっちり」していない。加えて口が軽く、自分を何かペルシアの王様と考えているので、なんにでも安請け合いする。やれあれをあげる、あるいはそれを手伝うよ、なんていう具合に。守れているうちはいいが、そのうち限界がきて安請け合いしたはいいものの、守れなくて約束を破るようになる。さらに、狂気的なほどにケチである。最近お金を使いすぎたのではないかと思って(その時は実際使いすぎていた)、家計簿をつけたところ、平均消費性向は3割だった。比較までに二人以上の世帯における家計調査報告を見てみると、勤労者世帯での平均消費性向は2023年8月で69.3%であった。

総務省『家計調査報告2023年8月分』

これでは、一般の世帯の消費性向の半分以下である。明らかに低いが、これでも使いすぎではないかと頭を悩ますくらいである。そして最後に、社会性が欠如している。いわゆる陰気な人間であるし、口を開けば大体の人間を怒らせている。
 そのような人間なので、有効な社会活動が行えていない。賃労働も、多額の奨学金に強いられて何とか行っているが、いやまともに行っておらず、仕事ができずに怒られており、狂気をはらみつつあるので、続けられる未来が見えない。
 そうした中でも、人間は食い、飲まなければならない。来るべき無職状態において生きる方便として何があるか。そこで考えて出たのが農耕である。
 農耕なら、それ単体では基本的に他人とかかわらないため、口うるさく干渉されない。また、体を動かすので健康にもよさそうだし、よく眠れるようになりそうだ。加えて、資本の指揮監督下にある賃労働とは異なり、自分で何でもやるしかない(小規模)農耕においては、構想と実行が分離しない。つまり、自分で何をどれだけ植え付けるかを考え、実際にそれを行うという精神労働と肉体労働両方を行えるのだ。他方で賃労働においては、工場などに典型的にみられるように、資本家あるいは産業下士官などによって何をどれだけどのように作るかが決められ、一般の労働者は多くは分業の元、ただ単純作業の元、資本に従って生産をするだけである。つまり、主に実行のみに従事させられる。また、資本の指揮を受けないために、労働のペースをある程度自由にすることができる。気分がすぐれないときには労働時間や労働密度を落とすことができるし、休むこともできる。逆に、調子がいい時には労働力を十二分に発揮することができ、加えて、消費した労働力によって生みだされた剰余価値すべてが自分のものになる。これらのことから、だめ人間にはよさそうと考えた。
 基本的に少しの管理であとは放置しておけば野菜は勝手に成長してくれる。育苗は少し手間がかかり面倒だし、何よりも植える前の畑の準備(畝立て、施肥、草取り等々)が面倒だ。それでも、一日8時間の無味乾燥な労働よりははるかに楽である。賃労働と違って頑張れば頑張った分の収穫につながりやすいし。
 こうしたことから、農耕を選択した。稲作はかなりの負担になるので、行えないが、野菜の生産は初心者でもそう難しくない。とりわけ、選ぶのはだめ人間でも作れそうな野菜である。それはクレソンであったり、かぼちゃであったり春菊であったりする。育てやすく栄養価が高く、収量がある程度あるものである。



 「だめ」な人間が「だめ」のままで生きられるようにするための一つの手段として、農耕を選択した。つまり、農耕は「だめ」の物質的基盤である。そして、この物質的基盤の余剰分は他者の援助や交流のために提供していきたい。また、こうした農業知識・技能(というほどのものでもないが)は共有知であるべきだと思うので、公開していきたい。加えて、近隣であれば一緒に耕作闘争をして「だめ」な人間が生きられる地域を作り広げていきたい。そうした思いで農耕をやっています。こうした行為は「だめ」であることをゆるさない資本主義的生産様式に異議申し立てをし、なおかつそうした「だめ」な人間にとってさしあたりの避難所を作り出す営為としてぜひおすすめしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?