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遊びの複雑さ:見えることと見えないこと

遊びとは...と説明をするならどのように答えますか。社会的な関係性を紡ぐ行為?ネットやゲーム?そう簡単に「これだ!」と誰もが納得できる説明はできませんが、"ヒトが成長していくにあたって経験している行為" これも遊びの説明になります。

今回の記事は2021/5/14(金)に開催された「遊びについて語りたい!」という3人で話した会話の内容を自分なりにまとめてみました。

遊びについて語りたい!とは

この「遊びについて語りたい!」という集いは、それぞれが専攻してきた分野や領域を問わず、ただ「遊び」という共通の関心を持ち、実例を提供しながら遊びの大切さであったり、遊びの根本的なものは何か...ということを深堀していく会です。メンバーは、ゆーだい さん、大嶋晴 さん、そして私(だっきー)の3名です。

私(だっきー
大学では心理学(発達心理学)を専攻し、障害児・者がいる短期入所に勤める支援員。発達観や遊びに関心があり、特に他領域にわたる遊びに関心があります。

ゆーだい さん
保育園で働かれていて、子どもとの即興的な遊びについて関心をもっているとのこと。Twitterで「New ポケモンスナップ」についてリプを送ってくださったことがきっかけで今回の企画が始まりました。

大嶋晴 (以下、晴さん) さん
芸術系の大学の出身で、遊びの制作活動(テトリバやつみこ)やデジタルな遊びとアナログな遊びの境界について関心を持っているとのこと。私とゆーだいさんのことを知っていて今回のトークでも間が空いたときに取り持って頂いたりと助かりました。

印象に残った内容

今回のトークは初対面である面々にもかかわらず、2時間近くまで話が絶えず行われるといった濃厚で話題の尽きない回でした。簡単にメモを取り、かつ私の中で新鮮な発見であったことをまとめると以下の2つのことでした。

・遊び作りで大切なこと
・「写真」という媒体

遊び作りで大切なこと

遊びはごく自然に行われ、転々と展開されていきます。でも「遊びをつくる」というのは意外と難しい...そんな話がでてきました。過去作品として遊びの制作をされている晴さんに制作への構えについて聴いてみました。

誰のために遊びを作るかというと、ファストプレイヤーは「自分」であることが大切だそうです。次の文章は晴さんの言葉をそのままな引用させていただくと遊び制作の大切な部分が見えてきます。

まず、僕が遊ぶ。次に、遊びがモノになったとき構造から僕を引き算し、僕ではない X  が代入されても遊んで楽しいように考える。

私たちが遊ぶときには、ある程度、構造化されていて、それを共有したり共通のルールを足したりすることで遊びの複雑さが見えてくるものなのですが、いかに単純で簡単にということを心がけた晴さんの遊び制作には「自分とモノ」といった次元から「ヒトとモノ」と公式のような簡潔な構造を見せてくれます。

「写真」という媒体

「New ポケモンスナップ(以下、スナップ)」がすごい!ということが話題になり、写真と遊び、ゲームについて話が広がりました。

まず、私の感想なのですが、このスナップは色々なゲームをしてきたのなかでもカテゴリがつけにくい不思議な要素をもっている感じました。周回的要素が強く、飽きやすいように思うのですが、話をしていく中で以下の特徴が飽きにくくさせているのだろうと思いました。

(1)写真という流れる時間軸を切り取ること、(2)見る方向、アクション(イルミナボール・リンゴ・音楽・サーチ)、促進、拡大といった複数の要素を交互的に作用されていること、(3)ゲーム的に写真を撮る以外に好きなポケモンに対して愛着を感じやすい。

ゆーだいさんがスナップの話のなかで「博士の評価と自己の評価」が「自己の評価軸と他者(社会)の評価軸」にあてはまるのではないか、話をしてくれました。

スナップのよいところは、博士の評価以外に自分で「この写真がいい!」って選べるところなんだよね。確かに博士に良い評価を得ないとゲーム性に欠けるだろうけど、その軸だけで遊ばなくてもいい、言い換えたら、自分の好きなベストショットを写真に保存して公開することできるということ。世の中、他者や社会の評価を無意識のうちに気にしてしまうけど、それによって自己の評価軸を押し込んでしまうことも多い。スナップというゲームの世界だから評価を他者でなく自己に向けられるのはいいよね。

実に大切な視点で、自分がしたいことを妥協してしまうことが多い(他者の評価軸)のが日常です。しかし、ゲームという非現実において自己を育むことができるのです。その話についてご本人が詳しく書かれているので、読んでみてくださいね。

晴さんは、「写真」と「デッサン」を比較を例に用いていたのがとても興味深かったです。

写真は無限とある空間の一部を切り取ることで有限と感じさせるけど、デッサンは逆で用紙の大きさという有限があるけどどのように描くかは無限性を感じる。

スナップの話から始まった写真という媒体なのですが、各々の哲学を感じさせるような多角面からの「写真」の価値観を展開してくれました。私は、このスナップがリメイクして遊んでみたのですが、写真が遊びになる瞬間がどういうときなのかというものを任天堂が教えてくれているようにも感じました。写真ですら遊びになるということを忘れていたのです。

見えること、見えないこと、遊び

遊ぶという行動をするときですら、無意識のうちに社会との関係に意識してしまいます。しかし、社会は遊びという行為において寛容的ではなくネガティブな要素に捉えしまうのです。矛盾しているように感じるのです。

子どもたちは見える世界を事細かに覚え、幼児であればママゴトのなかに家庭事情や家庭に置いてある機具、ペットまでも反映してしまう。しかし、材料を提供するのは一人だけではないのでごちゃ混ぜの見える世界を共有し、非現実の世界をあっという間に作り上げる。また、見えない世界においても同様に、初めは空想の世界であったのに次第に現実が入り混じる。

遊びというのは見える世界も見えない世界も行き来され、それは、現実的であって非現実な世界でもあります。この行き来が何度も遊びのなかで経験していくうちに、次第に子どもたち同士で共有しやすい設定を理解し、当てはめて展開されているのかな...と感じます。それは、遊びのデザイン構築で晴さんが話されていた公式的なものを無意識のなかで設計しているようにも感じました。


最後に、お二人にそれぞれの視点で会話の内容をまとめてくださったものがあるので、ぜひ読んでみてくださいね!

遊びと社会性について書いたものがあるので是非、一読してみてくださいね!


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