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保守の敵は保守か?

( ノ゚Д゚)毎度~!保守なだけにキャッチャー(捕手)やってます!
なんつってー!
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ←

人間の敵は人間」であるのは有史以来変わらないが、では「保守の敵は保守」なのか?をちょっと論じてみたい。

保守の敵はやっぱり保守

「保守」とは何か?という疑問は誰にでもあると思う。実は私も明確な定義を持って使っている言葉ではないのが正直なところだが、さしずめ日本における「革新」や「リベラル」に対してのカウンターとして捉えれば良いのでは?と思う。小林秀雄同様、思想としても現在の「保守」は理解しにくい。
本来、「保守」という言葉は「嫌われる」運命にある。少なくともIT業界では「保守案件」は嫌われるし、そもそも言葉のニュアンス的に良いイメージはない。
要するに現状維持といった意味合いが強い上に古臭いし、「田舎」のイメージだ。地方をディスる意図はないが、地方こそ「保守的」であり、新しいことを嫌うのは否めない。
しかし、もとより私が論じたいのは、そんな言葉の定義ではない。では何か?敢えて誤解を恐れずに言えば、「ネトウヨ」について論じたいのだ。
ひとくちに「ネトウヨ」と言っても千差万別で、その活動領域はネットに限定される場合と、そうでない場合もある。仮にネットのみに限定するならば、批判すべきは根拠薄弱なる「愛国」である。
具体的には、ネットのみの知識大東亜戦争で散華した先人を無批判に賛美し、戦後のGHQによるWGIPを否定し、日本国憲法(特に第9条)を否定する人達だ。もっと言えば中韓人を嫌悪し、最近は特に日韓関係がホットな話題だが、それについて付和雷同する人達を仮に「ネトウヨ」と言っておこう。特にTwitterに多いのだが。
私は、こういう(特に保守言論人と呼ばれるインフルエンサーに)付和雷同するような自称保守のネトウヨこそが「保守の敵」だと思っている。なぜなら、自分で事実を調べもせず、自分の意見もないからこその「付和雷同」だと思うからだ。

根戸ウヨ子という病巣

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愛国少女ウヨ子ちゃん』は、かつて小林拓己氏がTwitterで発表していたマンガ(のちに単行本として発売)で、それがTwitterアカウントを独自で運用し、当時の私を含む賛同者によって人気を博した。そして今では「愛国高齢者の同人サークル」に成り下がった。
ここで言う「高齢者」とは、30代以上のTwitterジャンキーの中年世代以上を指す。実際、運用に当たっているのは40代後半から50代の人間だ。
私がかつて応援していた立場から言えるのは、要するに根戸ウヨ子周辺は「愛国無罪」を撒き散らす害悪である、ということだ。簡単に言えば、日本が好きで愛国心がある人間を煽っているに過ぎない。そしてTwitter上で言論を繰り広げようとしているようだが、日本語で140字までの制限があるTwitterのツイートでは限界がある。だからイラストや動画その他の「同人」が集まり、好き勝手なことを主張している、としか私には思えない。
仮に作者である小林拓己氏が根戸ウヨ子を「お花畑の覚醒装置」と言うのなら、なぜ現在、小林拓己氏はTwitterで根戸ウヨ子のマンガを書いて発表しないのだろう?なぜコアな周囲の人間が一生懸命に根戸ウヨ子のイラストその他を拡散し、愛国を喧伝する必要があるのだろうか?
ここに、「保守の敵は保守である」の一面が見える。つまり、「根戸ウヨ子を応援しない人間は本当の保守ではない」という視点だ。実際、根戸ウヨ子クラスターを自認している人は、ほぼそういった意識に支配されているだろうと思う。
私が知らないだけかも知れないが、青林堂の『ジャパニズム』で連載が終了しているので、Twitter以外で根戸ウヨ子を見る機会はい。それにTwitter以外のネット上で根戸ウヨ子を拡散している例を知らない。仮にも「お花畑の覚醒」が目的なのであれば、Twitter以外にもその「覚醒運動」が広がって良いハズである。しかし、そのようなことは寡聞にして聞かない。所詮、作者もそのコアな信奉者も、根戸ウヨ子クラスターを自認している人も、そのレベルなんだろう。
Twitterの狭い範囲で愛国だの保守だのを言っている連中の「Twitter弁慶」を目の当たりに知ると、本当に情けないやらバカらしいやらで、ミットモナイことこの上ない。本人達は本気なんだろうし、さらに集団で特定のアカウントを攻撃しているのは、見苦しいのを通り越して犯罪だとすら思う。つまりはSNSの特性すら知らない、情弱で愛国を叫んでいる情けない人達である。
Twitterでは付和雷同する人が非常に多いが、そういった人達でもマトモな判断はするだろうから、ますます根戸ウヨ子とその信奉者は一般人から距離を置かれることだろう。

有名人に寄生する人達

保守言論人や保守系活動家は、ネット番組の虎8やチャンネル桜等に出演し、それを好んで視聴する人も多いので、そういった「ネットでの有名人」が現出した。それ自体を悪いとは思わないし、ネットでの「ニューメディア」が既存の新聞や地上波テレビといったオールドメディアを凌駕して欲しいとは思っている。
しかし、そういった「ネットの有名人」は、まだ我々一般人と講演会その他で出会う機会が多く、その著書にサインを貰うことだって珍しくない、割と近い存在だ。
問題なのは「ネットの有名人」を無批判に持ち上げ、その言論を肯定しまくることだ。それこそネトウヨの付和雷同だが、健全な状態とは言い難い。
よく批判もせず信じ切る人達を指して「信者」と言うが、正にこの「信者」は、現実をちゃんと把握出来ているとは思えない。上述した根戸ウヨ子の運営とその信奉者も「信者」でしかなく、やはり現実に汗をかいている保守系活動家に対して無用かつ不当ないいがかりともつかない批判をする「抵抗勢力」と化している場合が往々にしてある。
自分達のネット活動(リアルでの活動とは比較にもなりゃしない)を肯定し、かつ賛同しないのは「エセ保守」と断じ、現実に活動もしない(出来ない)のを引け目に感じているのかどうかは知らないが、むやみに他人を攻撃して批判しかしない人は、一体どんなにお偉い人なんだろうか
分かりやすく言えば、大して有名でもない保守系と思しき(?)マンガ家の作品を応援していると、それだけでTwitterでは「本物の保守」なのだろうか?ネットその他で保守的な言論を述べていて、著名な人の言うことを無批判に受け入れるのが、果たして「保守」なのだろうか?
これは以前から指摘されているが、ネットの有名人は講演会や著書を「提供する側」であるが、それを「消費する側」のネトウヨと「持ちつ持たれつ」で相互に依存している、という批判がある。
無論、専門家として保守系の活動している有名人だって食い扶持を稼がねばならず、それを自称保守を任ずるネトウヨが経済的に支えている構図だが、私は敢えて「寄生」という言葉を使いたい。なぜなら、「相互依存」状態にあり、やはり健全とは言い難いからだ。
つまり「保守ビジネス」や「右派ビジネス」といった、「商売」に成り下がってはいないか?ということを指摘しておきたいのだ。私は保守ビジネスだろうが右派ビジネスだろうが肯定する立場ではあるが、そこでネトウヨに「おもねる」のはどうなのか?と疑問に思うし、ネトウヨが無批判に賛同するから、ますます不審に思わざるを得ない。

思考停止が国を滅ぼす

いわゆるネトウヨを含め、一般に戦前・戦中の新聞を読む機会は、あまりないのかも知れない。それを指して「不勉強だ」と非難するつもりはないが、当時の新聞が果たした役割を知れば知るほど、特に朝日新聞に煽動された一般人(特に愛国心がある人達)が多かっただろうことは、想像に難くない。
当時の主要メディアが新聞や雑誌だったことを考えれば、ある意味仕方がないことであり、一般人が「物を言う」機会は今よりずっと少ないのを考慮しても、「情報を鵜呑みにする危険性」に誰も気が付かなかったの?という疑念は拭い去れない。
ともあれ当時も現在も、メディアに煽動される人は中産階級だと判明している。それなりに学歴や収入がある一般人が最も煽動されやすい。何故なら、それなりに学歴があるからまったくの無学でもなく、貧乏でもないから購買力もある。しかし、中途半端な思考しか持っていない人が多いとも言えるだろう。だから煽動されやすく、思考停止してしまう。日本人独特の「同調圧力」も相まって有名人が言うことを無批判に賛同し、付和雷同してしまう。
これを「思考停止」と言わずして、なんと言えば良いのか、私は言葉を知らない。
自分で調べて考えるのは、非常に手間である。特に自分の考えを持って行動するのは、時として心ない批判が伴うので、非常に厄介でもある。だからと言って「○○さんが言うから正しい」と無批判にその考えに乗っかって、その(自分が信じる)意見に批判的な言説や批判的な人を攻撃する、というのは如何なものか?それは一般的なネトウヨが嫌うパヨクや中韓人と何ら変わらないではないか。思考停止しているのは、どちらなんだ?

ハッキリ言おう。
残念ながら保守の敵は保守だし、保守が一枚岩になることはない
恐らく誰もが薄々感じているだろうが、今までマトモに批判する人がいなかった(または少なかった)だけの話だろうと思う。
思考停止だと批判されるのが嫌なら、自分で調べて考え、行動すれば良いだけの話ではないか。その手間を惜しむのなら、批判されて当然である。

私はクリエーターではなく栗イーターですが、サポートをいただければ書籍代や保守系勉強会(セミナー)の参加費に充て、さらに勉強して得られた知見を記事としてフィードバックします。