だじゃれおさむのダジャレノート2

「だじゃれをいうのはだれじゃ」(駄洒落を言うのは誰じゃ)
これはダジャレなのだろうか

土子金四郎著 「洒落哲学」(明治20年)の洒落の解釈をあてはめると、一言一意転倒調に分類される。明治時代の人から見て洒落の範疇にあるということは間違いないだろう。
(参考文献1)付 洒落の種類表
https://www.jstage.jst.go.jp/article/warai/16/0/16_KJ00005702934/_article/-char/ja/

(参考文献2)洒落哲学
https://dl.ndl.go.jp/pid/882520/1/29

東園冠者著「洒落滑稽法」(大正7年)の洒落の種類にも「転倒」がある。

(参考文献3)洒落滑稽法
https://dl.ndl.go.jp/pid/906240/1/43

なるほど「転倒」はダジャレの手法としてありということか。ただし、主流派ではない。その理由として「洒落哲学」の中で指摘しているように「一言数意の洒落ほど面白味なし」

一言一意転倒調の欠点としてダジャレとして非常にわかりにくいと言う問題があるように思える。「だじゃれをいうのはだれじゃ」以外に一言一意転倒調の有名なダジャレを挙げてみてと言われるとぱっと思い浮かばなかった。

だざいがいるのはだいざ」(太宰がいるのは台座)
も限りなく微妙だがギリギリダジャレといっていいだろう。面白いかは別として。
「だいざおさむ」という体操着姿の太宰治が台座に体育座りで寒がってるダサいダジャレを想像してみると。そこにほんの少し漂うダジャレ魂を感じなくはない。

がけけが(崖で怪我)」はどうだろう。むしろ、回文だ。
ひと工夫加えて「がけしたけがした」(崖下で怪我した)
すこしダジャレっぽくなった。しかし、ダジャレ魂は足りないような気がする。「崖下で怪我した気がした」とするとダジャレ魂が少しばかり出てきたような気がするが、そのダジャレ魂は一言数意の似音調によるものである。
ダンスすんだ」(ダンスが済んだ)
はどうだろう。うん、回文だ。
ひと工夫加えて「スーダンダンスがすんだだんす(済んだざんす)」
ここでも転倒調の存在感はほぼ消え去ってしまった。一言数意の似音調のに乗っ取られた感が否めない。
スーダン住んだ」だとやはりダジャレ魂が足りないような気がする。
ダジャレ魂を注入するには「スーダン住~んだん」という表記になるだろうか。「スーダンダンスすんだ(するんだ)」ならばダジャレっぽいかも。この微妙な感覚をうまく使いこなすのは一朝一夕ではできなさそうだ。一言一意転倒調のダジャレはむずかしい。

だじゃれをいうのはだれじゃ
がダジャレとしてわかりやすいのは、「だじゃれ」というワードの存在が強い。ダジャレへの心構えを喚起させるからである。ダジャレの概念をちょっとでも知っていれば、「だれじゃ」の部分は意図的なものだと容易に判断できる。
マロンロマン
もわかりやすい事例であろうか。「栗」と言わずにあえて「マロン」とする所にダジャレ魂の注入の思惑が透けて見える。
おやじおじや」(オヤジ(親父)のおじや)
と言われて、ダジャレなのか?おじやギャグなのか?それとも偶然なのか?とためらったり、吟味する時間が少なくて済むのである。
それ故に「だじゃれをいうのはだれじゃ」は一言一意転倒調のダジャレとして唯一無二の存在感を示し続けるのだと思う。駄洒落が存在し続ける限りは。

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