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長谷フリオの取材ノート・その2

 夏休みの宿題みたいなものが与えられた。
だじゃれおさむ氏、曰く「この辺のを読みあさってみるとブックリするかもしれないよ。」(ブック/bookビックリを掛けたダジャレ)
記事見出し画像のモノが私に貸し出された。

 きっかけは彼に私が
「ダジャレってうまくなるものなんですか?」
と訊ねたからだ。彼はこう答えた。
「ダジャレを劇的に改善する必殺技のようなものがあればいいんですがね。私自身、駄邪霊教の教祖を自称しておるのですが、研究というのもおこがましいので、お勉強と言いますが、それすら道半ばで、駄洒落の先輩というべき江戸時代の洒落すら満足に理解できていない有様です。洒落の先輩としては和歌の技法として掛詞(かけことば)なんてのもありましょうが、同じくわかってません。外のダジャレについてなんかさらにわかりませんし~(Sea)。現代は現代で時と場所で状況によってはダジャレ自体に罪はなくとも不適切ダジャレ認定されてしまうようなものも存在していたり、倫理観のアップデートができていないと大変なことに巻き込まれてしまうリスクがありますので。正直、あっぷあっぷでいまだ暗中模索・五林檎夢中(五里霧中)といった所でしょうか(※りんごappleを掛けてる)。ダジャレは瞬間文芸・瞬間芸術という側面も持ち合わせておりますので単品で評価するのも重要ですが、ダジャラー自体のトータルのダジャレでの評価を考えないといけないような場面もあるような気もします。たとえばスポーツの野球の打者が全打席でホームランを打つわけではなく、打率3割を越えると優秀な選手というのを参考にすれば、駄率何割で優秀なダジャラーという基準があってもよいのかもしれませんね。我々と言っても今は信者がいないので私ひとりですが、教団の目指すところは信者ひとりひとりが駄率を上げ、滑りまくる。そして、最終的に駄邪霊になることですね。大切なことは、本気で笑いを取ろうとして滑ることです。スベリ芸ありきのダジャレではダメなんです。最初から滑ることを目指してはダメなんです。そこの順番を間違ってしまうと駄邪霊の境地には達せないと私は考えています。あ、ここで気付いてしまったのですが、フリオ様の「うまく」なるという意味はダジャレが「ウケる」ということなのでしょうか。そこは我々教団と一般の方とは認識が違うかもしれませんね。我々教団の場合、ダジャレで滑ることを是としておりますので。ダジャレで「ウケる」という現世利益を目指すならば、ダジャレのスキル向上の他に人気者になるというステータス向上を目指すのが効果的かと思われます。人として尊敬されることによって、その人の放つダジャレに対する世間一般の評価、つまり「ウケ」は変わりますので。好感度があれば、不適切ダジャレを避けて通れば、ほとんどウェルカム状態で受け入れられるでしょう。たとえば、日本の男女問わず、アイドルタレントのダジャレは皆様、大好物のようで黄色い声援が飛び交っております。まあ、その反対で好感度が低いと、「好感度アップの為に股間どアップ」なんて言った日には「このセクハラ下ネタ野郎!」と罵られることになるでしょう。ダジャレとオヤジギャグが同一視されるのもこれがひとつの原因でありましょう。オヤジでも好感度が高い方はダジャレを放っても皆様、よろコンブ状態(※昆布が掛かってる)でございます。距離感が近いとダジャレが受け入られやすくなってしまいます。距離感が近くなったとしても「ウケる」ではなく「滑る」、駄邪霊教は「ウケる」の向こう側を目指しているわけでございます。それゆえ過酷な修行の道に迷い込んでしまうのです。」

 室内は静寂で包まれた。気のせいか私の体感温度が2~3℃下がったように思えた。私はダジャレに今の今まで寛容な部類の人間だと思っていたが、この、だじゃれおさむ氏の何がそうさせたのかはわからないが、彼のダジャレには静寂と寒々しさを感じざるを得なかった。
 それからしばらくして、放心状態の私に、冒頭のダジャレを添えて本棚から抜き出した数冊の本を持ってきてくれたのだ。本のダジャレに関して言えば、不思議なことに静寂と冷却は訪れなかった。

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